2023年5月28日
5/19に母が逝去しました。享年88歳でした。
18歳で父と結婚。創業期の米田組を支えました。創業当初は土木工事の下請負業者であったために様々な場所で飯場はり施工をしていたようです。その賄いに苦心したそうです。昭和28年の水害では綾部市故屋岡で飯場をはり電気もなく55人の作業員がいたそうです。内記6丁目の叔母から日通便でのしいか、大豆もやし、切り干し大根を送ってもらい副菜にしたそうです。豊岡の現場では水がなく、豊岡病院さんから一斗缶で水を分けていただいたそうです。
その間に私たち兄妹を産んで大事に大事に育ててくれました。母で印象深い記憶は小学校低学年の頃、内記6丁目に住んでいた時に、雪の朝向かいの余田さんに卵を買いにお使いに行ったことです。ハトロン紙の袋に卵を入れて貰い帰る途中に雪で滑ってこけて卵を割ってしまいました。父母が笑いながら「洋一は卵を買いに行って卵を割って帰ってきたw」と揶揄ってくれた事です。幸せな時間でした。
私は中学卒業後関東の高校へ進学しました。高校1年の入寮時に駅前の家具屋で母と布団を買い小雨で煙る緑の芝生の先にある有隣寮に向かいました。母は私の「未知への冒険」を黙って応援してくれました。弟も同じような道を歩んだ為、母からすると寂しかったのではないかと思っています。
33年前に父が他界後はお茶、お花、書道、三味線、ダンス、パソコンなどを熱心に習い趣味三昧の生活を送っておりました。三味線では施設などへ慰問にも行っておりました。
6年前から老人施設にお世話になり機嫌良く過ごしておりました。若い時に受けた輸血が原因の持病があり、徐々に悪化しました。ここ2ヶ月は食欲も落ち・・・旅立ちました。
母らしい子供を煩わさない静かな旅立ちでした。