立春大吉

2025年2月9日

ブログ

立春になり、強い寒波がやって来ました。

初めて雪らしい雪が積もりました。

初日は玄関に可愛い雪だるまが⛄️登場しました。

翌日はしっかりした雪だるま⛄️登場しました。

東京に在住の娘の生後4ヶ月のちーちゃんに似た雪だるま⛄️らしいです。

 
 
最近Duolingoを始めました。

スマートホンで語学をゲーム感覚で覚えていくやつです。

英語をやっています。(93カ国語あるそうです)

現在サファイアリーグに参戦しています。

やり出すと結構面白いですが、上のリーグに上がっていくためには30人中何位に入ってないと上がれない為急かされる感じです。ブロンズ→シルバー→ゴールド→サファイアとやって来ましたがサファイヤになって急に競い合う相手がレベルが高くなり、夜の間(時差がある為?)に追い抜かれる感じです。

簡単な日常会話を何回も何回も繰り返して覚えていく感じです。
  
  

 
 
それと寝床で「蠣崎波響の生涯」中村真一郎著を読んでいます。同じ著者の「木村蒹葭堂のサロン」も一緒に購入しました。

前回のブログの中で「江戸時代の上方の成熟した文化」なるものを書きましたがその延長線上でこの本が出て来ました。蠣崎波響は松前藩の家老でありながら当時の前衛詩人というべき存在であった六如正人の直弟子であり、エキゾチックな南蘋派(なんぴんは)の画人でもありました。波響の時代、松前藩はアイヌ諸族がロシアの南下政策の煽動をうけ、しばしば反乱を引きおこし、その難局に対処できない松前藩を幕府が取り潰しを考えていました。波響はそのような宿命に立ち向かい、藩の行方と300余名の藩士の生活の全責任を負い、そのうえでアイヌ風俗を徹底して絵に描きました。(松岡正剛千夜千冊「木村蒹葭堂のサロン」※)

蠣崎波響は京や上方、江戸との儒者や画壇との交流が常にありました。上方のコーディネーターでもあった木村蒹葭堂とも面識がありました。

・・当時の前衛詩人六如正人が書いた波響との出会いが出て来ます。
「波響楼ニ寄題ス」という長詩です。
「年甫(はじ)メテ強壮、風流温雅」の語が出てくる。
「書ヲ読ミ、詩ヲ能クシ、最モ絵事ニ長ズ。当世、画ヲ以ッテ家ニ名ヅクル者ト雖モ、能ク及ブ莫キ也」
又、「(松前城下での)居ル処ニ楼アリ。前、大洋ニ臨ミ、名ヅクル波響ヲ以ッテス。因ッテ亦、自ラ号トス、辛亥(寛政三年)ノ夏、京師ニ上リ、僑寓数ヶ月。予、愈々歓待ヲ得、遂ニ忘年ノ交ヲ結ブ」
老僧は三十歳近くの年下に若者にぞっこんとなります。

又六如正人の詩の中に
「池大雅水亭夏景」に
「先生、睡起、正ニ酒ヲ思ヒ、市、遠クシテ、阿奚(召使)故(コトサラ)未ダ還ラズ」
大雅のアトリエの閑静で不便な郊外にあった有様と主人の酒好きな様とを歌って、その親交ぶりを思わせます。

ポツポツと読んでいますが江戸時代の儒者や俳人画壇の行き来や豊かな「知のネットワーク」といったものが感じられます。著者中村真一郎がその時代の木版文書を三千冊読破したと書かれていますが丹念に漢詩を解説されており大変な力作と感じております。購入時は漢詩が多く入っており、読み進めるかな?と危ぶみましたがそれなりに読み進めております。

・・江戸時代の人のことを書いた本を思い出しますと以前江戸時代の弘前藩の医官である「渋江抽斎」※森鴎外著をこのブログで書いたことがありました。森鴎外も軍医総監であり先人の医書を読む好事家(ヂレッタント)でありました。渋江抽斎も同じく医官であり先人の医書を読むことに精力を傾けた方でありました。そうした関係から鷗外も医書を読み進める中で渋江抽斎の蔵書である「弘前医官渋江氏蔵書記」印が何冊もあり、渋江抽斎に興味をもち渋江抽斎が歩んだ道を辿っていきました。

「・・わたくしはまたこういう事も思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。そのあとが頗(すこぶ)るわたしと相似ている。ただその相殊(あいこと)なる所は、古今時を異(こと)にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今大きい差別(しゃべつ)がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎を視て忸怩(じくじ)たらざるを得ない。
 抽斎はわたしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたしの比(たぐい)ではなかった。廻(はるか)にわたくしに優(まさ)った済勝(せいしょう)の具を有していた。抽斎はわたしの畏敬すべき人である。」渋江抽斎 森鴎外著より

森鴎外に史伝三部作があります。「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北條霞亭」です。中村真一郎も晩年に「頼山陽の時代」「蠣崎波響の生涯」「木村蒹葭堂のサロン」を書き上げ三冊目が絶筆となりました。
同じく先人への敬慕、江戸期の知識人への尊敬があったのではないかと感じます。

※太字 リンクです。

 

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