指月(しげつ)

2012年11月23日

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某料理屋さんの飾り棚で布袋さんを見つける。

「おやっ?」

と思う。
 
 


 
 

先日見た仙厓和尚の禅画も布袋さんがおそらく月を指していた。
 
 
 
 たしか・・・、百歳まで生きられた清水寺の大西良慶さんの「ゆっくりしいや」という本を以前に読みました。お釈迦様が生まれられて、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」とおっしゃられ、片手の指で天を指し、もう片方の手で地を指された故事が書かれていたことを微かに思い出しました。
 
 
 
・・・人間の手ほど面白いものはない。

手には表情がある。人生がある。若い人の手には若さがあふれており、老人には老人の苦渋がある。顔の表情のように目まぐるしく変わりはしないが、それだけににじみ出る味がある。

 しかも、手はものを言う。人間の手の中で、手ほどたくみに表現するものはない。人間は、手を働かすことによって文明というものを築き上げたが、手で「こころ」を伝えようとしたところに、文明のおこりがあるのではないか。

 仏法では、右手を慈悲、左手を智恵といっているところがあ。手を単なる肉体の道具としてではなく、霊的な働きを求めたのではないか。
 
 古いところでいうと、お釈迦さんの生誕がそうやった。お釈迦さんは生まれ落ちるなり、七歩歩まれて、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と言われたという。ただそう言われただけではない。右の手で人差し指で天をさし、左の手で地をさしている。天と地をさす。ここに意味がある。天地をさすことによって、天地がお釈迦さんのなかに包まれてしまうの。天にも地にも、我ひとり尊しと言われた宣言の意味がある。
 
 これ、わかりやすくいうとね、指月(しげつ)の指というたとえがある。中国の古い図を見ると、布袋さんが天をさしているの。月をさしているの。指は指そのものであって、人間の肉体の一部であって、肉体以外の何者でもないけれども、月をさすことによって、指そのものが月になる。もとは月やからね。

 ・・・・月は仏法なの。仏法を説くものも聞くものも、法の決着である仏様というものは天上に位置するということを自覚しなければならない・・・

                                  (「ゆっくりしいや」大西良慶氏口述)

 

 


 
 
 
 
・・・むつかしいですね。

 

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