そわそわ・・・

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先日1級建築士試験の合格発表がありました。

リフォーム部のFさんが二次試験を二回目の受験で見事合格されました。

事務所で設計の課長が「・・・おめでとう!」といっているのを聞いて知りました。

お祝いの電話をかけると「あじがどうございまじた・・・(涙)」

喜びで泣いておられて、言葉にならない様子でした。

よくよく考えてみると弊社の社員が五年連続で1級建築士試験に合格しました。

今年は2級建築士、宅地建物取引士にもそれぞれ2名合格しました。

社員の努力に頭が下がります。
 

 
 
閑話休題、先日家内が参加している社会福祉協議会のファミリーサポート事業で3歳と5歳の男の子が1900から2100まで我が家にやって来ました。

夕食も食べてもらうとのことで、前日から家内は献立を考えている様子でした。

前日から私もなんとなく・・・落ち着かない感じでした。
 
私が早く帰るとややこしいので少し遅い目に帰りました。


 
2000頃に帰りますと食事も終わったようで元気な男の子が二人遊んでいました。

「お疲れ~!」と声をかけてもらいましたw

「こっちきて遊ぶの見てて。」

「キャッチボールしよう!」

「おっちゃん、巨人の監督の由伸に似ているね。」(?)

「もう寝ようかなぁ~!」

と元気一杯遊んで貰いました。

お兄ちゃんは2年前に我が家にマッチングに来たときのビーダマンを覚えていたそうです。

2100にお母さんがお迎えに来られて元気一杯帰っていかれました。
 
 
その夜は結構疲れてぐっすり休めました。

○○くん、△△くん、また、おいでよw

 

 
 

晩秋

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三連休は福知山マラソンの応援に行きました。

リフォーム福知山店の前で応援しました。

幸い天候も少し雨がぱらついた程度で最後まで崩れず良かったです。

弊社のランニングクラブ「米走道」(こめそうどう)は9名参加8名完走の好成績でした。

勿論鳴り物を首からぶら下げての応援でした。

後でO君から「鳴り物入りの応援がよかった!」とのお礼メールがありましたw


 

 
 
翌日は子供たちに1年遅れの還暦祝いに城崎温泉に連れて行ってもらいました。

到着後予約していたフォトスタジオで記念の家族写真を撮影してもらいました。

その後夫婦の記念写真になりましたが、私の表情が硬い為「お父さん笑って!」とカメラの横でEXLEの「チューチュートイレイン」をグルグルと三人で踊り出しました。

フォトスタジオの方が大爆笑!でしたw

さんざん温泉街の外湯に入り近在の宿に泊まりました。
 
翌日城崎温泉のロープウェイで山頂に上がりました。

山頂付近に簡素な記念館がありどっかで見た事がある方の銅像でした?

中へ入ってみると城崎温泉町の出身で初代関西電力株式会社の社長で黒部川第四発電所建設(黒四ダム)を決断され世紀の難工事を陣頭指揮された太田垣士郎翁の記念館でした。(当時総工費513億円。投入労働力1千万人)

丁度今年の9月に砂利採取業の西部開発(弊社の子会社)社員旅行で黒部立山アルペンルートに行ってきた所でした。

盛んに関西電力中興の祖太田垣士郎翁の写真を見る機会がありました。

映画「黒部の太陽」にも太田垣士郎翁が描かれています。

黒四ダム建設終了後使用後のロープウェイを活用しようとして、郷里の城崎温泉での活用を考えられたそうです。結局移転費用が高く翁の肝いりで新規に会社を興し新設されたそうです。
 

 
 
そういえば、城崎温泉といえば11月下旬に業界団体の用事で東京まで「山陰近畿自動車道 整備推進決起大会」に行ってきました。

各首長や衆参国会議員さんの挨拶がありましたが、島根県知事さんのご挨拶が出色でした。

大まかな概要は

・・・山陰近畿自動車道の沿線の京都府の与謝野町には明治時代に活躍した歌人与謝野鉄幹が出身で、兵庫県の城崎温泉では与謝野鉄幹(寛)が「ひと夜のみ ねて城の崎の湯の香にも 清くほのかに 染むこゝろかな」と詠みました。晶子は「日没を 円山川に 見てもなほ 未明めきたり 城の崎くれば」と詠みました。鳥取県の鳥取砂丘では与謝野晶子は「砂丘とは 浮かべるものも あらずして 踏めば鳴るかな さびしき音に」と詠みました。ことごと左様に山陰近畿自動車道は・・・・

とても洒落たご挨拶でした。

石碑は幕末に京から逃れて来た桂小五郎が一時城崎温泉の旅館で匿われていました事を司馬遼太郎氏によって記されていました。

「城崎にて」を執筆した志賀直哉、有島武郎など古今東西の文人墨客に愛された城崎温泉でありました。

あっ・・・・それと、地元の方がとても丁寧に大事に温泉街を運営されている気がしました。賑わいもかなりありましたが、外湯などどこへ行っても気持ちよく過ごせました。

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先月中旬にバンクーバー、シアトルのビジネス視察ツアーに行ってきました。

バンクーバーは海に面した静かな街という印象でした。

カラフルなサイロのみえる生コン工場の向こうに見える逆三角形の不安定なビルは新国立競技場を設計された隈研吾氏の設計だそうです。
 

 
印象に強く残ったのはシアトルの街でした。

海に面し気候も温暖で遠くには冠雪した山々も見え自然が豊かです。

景気も非常に良い感じでした。

イチロー選手の「夢」を実現させたセーフコフィールドにも行きました。

市内にはボーイング社8万人、Amazon社5万人、スターバックス社3万人(上の写真は市場にあるスタバ1号店)が勤務しており新しいビジネスがドンドン伸びている感じでした。

ボーイング社の工場3交代時には大変な渋滞が起きるそうです。

ボーイング社のエベレット工場にも行きましたが何と横1,000m×縦500m(ギネス認定世界一)の工場でボーイング777,787,747等の旅客機、軍用機が年間約140機作られています。

敷地は東京ドーム90個分の広大な敷地です。

工場の中は同時並行で何機もの旅客機が作られており「壮観」の一言に尽きました。(工場視察ツアーには一切のカメラ、スマホは持ち込めない。工場内部の写真はWikipediaより引用)

1機300億円位するそうです。時速は800km/h位でそれ以上出すと機体料金が高くなり経済性に劣るそうです。

塗装のペンキも白系統が軽く、ニュージーランドエアーなどの黒い機体(オールブラックスの黒)は1トン程度重くなるそうです。

横に大きな飛行場がありテストフライト繰り返すそうです。

各航空会社が飛行機を受け取りに来るときは、パイロットのみが来るそうです。

1回目はボーイングのパイロットが運転し、2回目は発注航空会社のパイロットが運転し、問題なければ航空会社のパイロットが運転して各国に飛行して持って帰るそうです。

面白いのは離陸前に航空会社のパイロットは必ずフラップ(主翼に付いてる上げ下げする高揚力装置)を「パタパタ!」と上げ下げして、ボーイング社に感謝の意を伝えてから離陸するそうですw

丁度世界に4機しかないブルドッグのような飛行機ドリームリフター(航空機の部品を運ぶ)が3機来ておりラッキーでした。日本では航空産業の集結する名古屋地区のセントレア(中部国際空港)に飛来するそうです。

ボーイング社の部材は世界中で分散して製造されており、日本からは胴体や主翼で川崎重工業、三菱重工業、富士重工等の部品が採用されており航空機全体の35%程度のシェアを占めるそうです。

エンジンはロールスロイス(英)とGE(米ゼネラルエレクトリック社)等各々の部品は世界にまたがるサプライヤーから供給されております。
 
 

ホテルの直ぐ傍にあるAmazon の無人実験店舗「Amazon go」にも行きました。

事前にアプリをダウンロードして自分のQRコードを取得してクレジットカードを登録。

入店時に自分のQRコードを認証。

店内にはカメラがしつらえており手に取った商品を追跡。

レジなしで店外へ。

10分後ぐらいにiPadminiにレシートが送られてくる。

家内も商品を手にとって私の手提げ袋に入れましたがお互いのレシートは各々に別々に送られてきました。(ビックリ!)

Amazonは市内のダウンタウンに次々とビルを借り上げており社員は交通渋滞がある為近在に住んでいるそうです。

市内でネクタイなしでバックパックで犬を連れた人を大抵Amazon の社員だそうです。

Amazonは会社に犬を預かる施設があり皆犬連れで出勤するそうです。

・・・よく見ると市内にはネクタイをして通勤する人がほとんどいない。
 

途中、シアトルのランドマークタワー的存在のスペースニードルやチッテンデン水門に行きました。

私が気に入ったのはチッテンデン水門でした。

港と湖の水位が1.7m~1.8M違う為、船を通しながらゲートを締め水位を調整して様々な船やヨットを通しておりました。

遠景には船を通す為に跳ね橋が上下しておりました。

丁度水門を通りかかった自転車部隊?のポリスも愛想がよいw

途中浮き橋を通ったり、ホテルへ帰ると窓からは目の前をモノレール、路面電車、上空をひっきりなしに飛行機が飛び交う。

米国のインフラの底力を見る思いでした。
 

ダウンタウンではスターバックスリザーブⓇロースタリー&テイステイングルーム(希少価値の高い豆限定の次世代コーヒーに特化した焙煎工場)にも行きました。

店内では焙煎の何ともいえない良い香り!と様々な趣向を凝らしたスタバの記念品が売られており、とても楽しめる場所でした。

利き酒ならぬスタバの利きコーヒーも楽しめました。

・・・お店の雰囲気に「う~ん・・・。夢があるなぁ!」と感じました。
 
 
 
 
 
シアトルはとっても素敵な街でしたw
 
 
 
 
 
 

 

台風一過

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前夜台風の影響でかなりの降雨がありました。

今朝は一転快晴となりました。

姫路市安富町で倉庫の地鎮祭がある為、早朝自転車で会社へ向かう。

朝陽を浴びながら道路を走ると風も肌寒く心地よい。

雨で道路の埃や塵がすっかり流され朝陽に道路が光っている。

・・・丁度新雪のスキー場の斜面を滑っているような快感。

 
 
某日、幼馴染みと杯を交わす。

遅くまで機嫌良く話し込む。

翌日、お昼頃からテニスクラブの練習に参加。

汗をかき前日の酒の気を流す。

試合形式の練習になる。

やれどもやれども負け続けるが、気がつくと・・・何となく心地よい疲労感・・・。


 
  
前月1週間ほど休みを頂いて家内とスペイン、マドリッド・バルセロナへ。

個人旅行故、交通機関、美術館の利用の仕方で苦労しながら廻る(^^;)

一日二万歩以上歩く歩く・・・。

地下鉄の回数券を曲げてしまい入場できなかったり、地方鉄道の切符売り場が判らず右往左往したり、ネットサイトで予約した美術館の共通券の使い方が良く分からず苦労したり一日一回は涙目・・・状態に陥りました。。

楽しかったのは通りがかりに入った居酒屋。

こわごわ入るので楽しければとてもテンションが上がりました。


 
バルセロナではカタルーニャ地方の独立運動の大規模デモの日に遭遇し、避けたつもりでしたが地下鉄の駅を出たらばったり・・・。発煙筒から紫色の煙も上がる・・・(驚)


 
 
月末には子会社の砂利採取業の西部開発の社員旅行へ。

宇奈月温泉、黒部立山アルペンルート、大町温泉郷へ行きました。

何時もヨネダ関係の用事で一緒にいる事が少ないので、3日間仲間とゆっくり、まったりと楽しみました。

 

悠久の歴史

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少し朝夕に涼しさを感じたと思ったら、台風を伴い厳しい暑さとなりました。

某日、弊社のグループ会社の西部開発(砂利採取業)の砂利掘削地の河川敷での地権者への農地の返還に立ち会いました。

現地に行ってみますと農地が整然と耕運され、杭の復元がなされていました。杭には良く分かるようにしのぶ竹にピンクのリボンが各々に結ばれていました。

年配の地権者の方が十人余り見えられました。

非常に暑い時間帯でもありクーラーから冷たいお茶をお配りしました。

返還作業後、次年度の用地の目印をたてる為に社員がしのぶ竹を沢山担いできました。

「!」

まるでお祭りの段取りが始まる感じでしたw


 
 
さて、最近古代遊牧騎馬民族を描いた「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林俊雄著を楽しんで読んでいます。

紀元前八~七世紀にユーラシア大陸の西に忽然と現れたスキタイ人、又紀元前二世紀にユーラシア大陸の東に現れた凶奴の歴史を興味深く追っています。

そもそも何故この本に辿り着いたかは「ヘロドトス-歴史」松平千秋訳からでした。

紀元前484年にハリカルナッソス(今のトルコ西南部)に生まれたヘロドトス(ドーリア系ギリシャ人であり当時都市国家であったアテナイに在住)は自分の故郷であったペルシア帝国のダイオレス大王を畏怖の念を持って調べるうちに、全盛期のペルシア帝国のダイオレス大王を持ってしてもついに征服できなかったスキタイの存在について熱心に調べるようになる。我々がスキタイの存在を知れるのは後年「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスの希代の執着のお陰です。

ヘロドトスが旅をしながら実際に見聞きしたことが伝聞も含めて物語風に書かれています。ギリシャ、ペルシア、リュデイア、エジプトと言った古代オリエントの風俗、習慣、戦争、民族の盛衰、地理などが渾然と書かれています。よくも紀元前の筆者がこれだけ克明に史実や伝聞を集めたと思います。

出張の都度この本を旅行鞄にいれ車中でポツポツと読み進めました。・・・そのうちに「ヘロドトス-歴史」の様々な論評を見てみたくなり、調べるうちに「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林俊雄著に行き着きました。


濃い緑:ヘロドトスの伝えるスキタイの領域 薄い緑:前8世紀~前4世紀のスキタイ系文化の広がり 朱色:前2世紀の凶奴の最大領域

他方、紀元前二世紀にユーラシア大陸の西に現れた匈奴。これについては同じく紀元前145年頃に生まれた司馬遷がヘロドトス同様に長距離を旅しながら克明に調査や資料収集をやってのけてます。ヘロドトスの「歴史」と並ぶ司馬遷の「史記」。全ての歴史の源流になる大著です。司馬遷の父は前漢の大史令だった司馬談です。武帝の随員として四川、雲南、湖南、山東に赴きました。やがて匈奴に使節として送り込まれた長騫(ちょうけん)などから聞き取りを行えるようになり匈奴のことを知るようになる。(前漢は高祖劉邦が凶奴の王冒頓単干に破れて以来匈奴に対しては低姿勢で臨む。しかし武帝の時代に前漢は最盛期を迎え宿敵匈奴に対して反攻作戦を開始。長騫は匈奴の西の大月氏に派遣され匈奴への挟撃を狙う。作戦は失敗に終わったものの長騫が持ち帰った北西部の匈奴の情勢が判るようになり、反攻作戦に大いに影響を与えた。)司馬遷は前98年に匈奴に下った李陵(中島敦の「李陵」で巷間に知られている。後述。)を擁護して武帝の怒りに触れ宮刑(去勢)に処せられる。以降屈折した思いを宿しながら十数年を費やして大著「史記」を完成させる。


戦国時代の中国北方 様々な戎狄 がいた。月氏・匈奴・東胡

スキタイも匈奴も文字を持たず自らの歴史を記録することはありませんでした。幸いにも東西の「歴史の父」と称される当代きっての名文家ヘロドトス、司馬遷によって克明に書き留められることになりました。
 

ヘロドトス、司馬遷の語るスキタイと匈奴の風俗習慣は驚くほどよく似ている。

ヘロドトス「歴史」刊四               司馬遷「史記」刊110、匈奴列伝
「街も城壁を築いておらず」             「城郭や定住地・・はない。」
「その一人残らず家を運んでは移動していく」     「水と草を求めて移動し」             
「騎馬の弓使いで」                 「壮年になると力強く弓を引いて、皆甲冑(かっちゅう)
                           をつけて騎兵となる」
「種も撒かねば耕すすべをしらない」         「耕田の作業はない」
「生活は・・家畜に頼り」              「牧畜の便にしたがって転移する」
「ペルシア王が・・向かってきた場合には       「有利と見れば進み、不利と見れば退き、遁走を恥としない」
・・逃れつつ・・撤収し、ペルシア王が退けば
追跡して攻める」

整理すると
①農耕を行わない純粋な遊牧民
②家畜と共に移動し、定住する町や集落を持たない
③弓矢に特に優れ、男子は全員が騎馬戦士である。
④その戦術は機動性に富み、かつ現実的であって、不利なときにはあっさり退却する。

スキタイの章には様々な遺跡の発掘調査のエビデンス(証拠)が示されている。もっとも盗掘が盛んに行われ金のみ持ち去られることが多々あった。シベリアの大河イェニセイ河の源流にトゥバという国がある。現在はロシア連邦を構成する一共和国。そこの積石塚の石材はソビエト時代にソフホーズ(国営農場)が設営されると道路、倉庫、工場を建設するのに石材が必要になり手近な積石塚から石材が大量に運び出された。


キンメリオイとスキタイの西アジア侵入ルート

右手に弓を張ろうとする男、左にヘラクレスにひざまづいて王権を授けられる末子。スキタイの起源神話。

パジリク5号墳断面図。巨大な氷のレンズが形成されていた。凍結し空気に触れないことによって有機質の遺物がよく残る。アルタイ北部(カザフスタン)

草原の覇者の装飾品。前脚後ろ脚を前後から折り曲げている。慣れ親しんだ動物や空想上の合成獣グリフィンなどがモチーフに使われる。

「黄金人間」イッシク古墳(カザフスタン)

※写真は全て「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林俊雄著より。

前二世紀にモンゴル高原の前新興勢力として姿を現す匈奴は常に秦、前漢、新、後漢との対抗勢力として位置づけられる。大国と肩を並べるほど軍事力は強大であった。

匈奴の王は単干(ぜんう)といいその社会は十進法からなる軍事組織をもっていた。単干の下に四王、その下に左右大将、左右大都尉、左右大当戸、左右骨都候がいて計二十四長がいた。

単干は毎朝テントを出ると、日の出を拝み、夕方には月を拝む。座るときは左をたっとび北を向く。日は戊(つちのえ)と己(つちのと)をたっとぶ。十干(じゅっかん)で五番目と六番目にあたるので、五と六を吉日とする。

祭祀は毎年正月に「諸長が単干の庭に小会」。五月には「龍城に集まって大会し、先祖・天と地・鬼神を祭る」。秋、馬肥えた頃には「たいりんに大会し、人畜の計を課校(調べるの意)する」。

刑法は簡単で厳格な点に特徴がある。刀を一尺(22~23cm)抜けば死罪。刀は匈奴にとって神聖なもの。盗みをはたらいた者に対しては家産を没収、小さい盗みはあっ刑(くるぶしを潰す)。

重大な事を決行するときは常に月の満ち欠けに従う。月が満ちてくれば攻撃し、月が欠けてくれば退却する。戦利品はそれを奪ったものに与えられ、人間を獲得すれば奴婢にすることが出来る。戦況に従い兵士が利益になりそうだと思えばどっと集まり、逆に苦戦すると思えば一挙に雲散する。戦死者の寡婦対策として「レヴィート婚」の風習がある。父や兄が戦死するとその子や弟が継母や兄嫁を娶る。

秦、前漢、新、後漢と匈奴とは時代によって和親と侵寇の繰り返し。前漢の武帝(軍事面で大活躍をした事がうかがわれる。⇔文帝)は匈奴に対して並々ならぬ敵愾心を燃やした。時代によって策略を変えた。

①月氏(匈奴と同じく戎狄 )との同盟作戦
長騫は匈奴の西の大月氏に派遣。挟撃作戦は失敗に終わったものの長騫が持ち帰った北西部の匈奴の情勢が判るようになり、反攻作戦に大いに影響を与えた。

②おびき出し作戦 
匈奴の王単干を奸計によりおびき出したが、すんでのところで単干の直感(野に家畜は見られるが牧人の姿が全く見えない)が働き脱出した。

③正攻法作戦
財力を蓄えた漢は満を持して衛青(えいせい)等四人の将軍に大軍をつけて正面衝突を繰り返す。一進一退を繰り返すが徐々に漢の優勢になる。衛青とその甥霍去病(かくきょへい)将軍等の活躍により漢の領土は黄河の北まで拡大。

・・・漢は「動く敵との闘争」は果てしないものと感じ、徐々に河西と西域の国々と同盟を結び取り込み大規模な植民を行いながら匈奴を追い込む。

匈奴の面白いところは匈奴に送り込まれた長騫など漢人を度胸がよければ妻まで与えて自軍に引き立てようとした。場合によってはさらってきて自軍の武人に取り立てようとした。再三そのような話が出てくる。このような話の中から前述の中島敦の名作「李陵」も出てくる。李陵は歩兵五千を従えて作戦に出るが匈奴の捕虜となる。李陵は降伏するふりをして単干(ぜんう)と差し違える覚悟だった。その覚悟をみた単干は李陵を気に入り、娘を娶せ、右校王という名を与えた。このときの李陵の心の葛藤が中島敦の名作「李陵」の主題になっている。

漢の西域回廊での作戦で楼蘭が落ちた。井上靖の名著「楼蘭」もここから生まれた。

後に匈奴は二つに分裂し親漢の匈奴が呼漢邪。ここへ漢室から嫁いでいったのがかの王昭君。数奇な生涯は様々な詩文に歌われたそうです・・・。

・・・何れにしてもユーラシア大陸の騎馬民族の大きな動きは歴史への興味とロマンをそそります。

自分の読んできた歴史の書物が西から東へ徐々に向かっています。

最後に・・・・不思議な歌唱法ホーミー(モンゴル国西部、中国ウイグル自治区に伝わる歌唱法。喉をふるわせて低音と高音を同時にだす。)・・・不思議な気分になります。