噂話・・・。

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某日、社内の一斉清掃。

今月はお隣の保育園との間の農業用水路の泥上げ。

落ち葉と砂が結構溜まっている。

(photo by M.Horii)

狭い空間で端からスコップで寄せてこようとするが、距離が長いため一輪車が既に用意されている。

誰かが泥上げの大まかな指示を出し自然、あうんの呼吸で

「土砂を一輪車で運搬→1トン土嚢に集積→ユンボで引き上げ→パレットの上に1トン土嚢を置く→フォークリフトで運搬」

のフローチャートでの作業となった。
 

作業をしながらふと先日読んだ「サピエンス全史(上・下)」ユヴァル・ノア・ハラリ著(ヘブライ大学歴史学教授)のくだりを思い出す。(NHKの番組で世界中で話題になっているこの本の特集をやっていました。寝てしまいさわりしかみれませんでしたが・・・。。)
 
 

 
 

「ホモ・サピエンスは虚構(例えば共通の神話)を信じる能力を身につけることによって集団で物事を成し遂げる力を持ち、他のホモ属を凌駕し圧倒する力を備えた。」
 

・・・ホモ・サピエンスはかつてアフリカ大陸の一隅で捕食者を恐れ細々と暮らしていた「取るに足らない集団」であったが、(ヨーロッパと西アジアにはネアンデルタール人等がいた。)多数の見知らぬもの同士が協力し、柔軟に対処する能力をサピエンスだけが身に付けることによって食物連鎖の頂点に立った。即ちサピエンスのみが「虚構、架空を信ずる力=想像力=物語を語る力」を身に付けることによって集団で物事を成し遂げることが出来るようになった。(「認知革命」と呼ばれる。)

様々な研究によると、草原に住むサバンナモンキーは「気をつけろ!ライオンだ!」と伝えることは出来る。ホモ・サピエンス(賢いヒトの意)は「ライオンは我が部族の守護霊だ」と虚構、即ち架空の物語を語る能力を獲得した。この能力こそがサピエンスがホモ族の中でネアンデルタール人など他を凌駕し生き残る決め手となった。

数十人の部族で刻々と変化する関係を追跡するためには手に入れて保存しなければならない情報の量は信じがたいほど多い。あらゆる類人猿はそうした社会的情報に強烈に興味を示すが、彼らは効果的に噂話を交わすのが難しい。古代のネアンデルタール人やホモ・サピエンスもなかなか噂話や陰口が利けなかった。集団で噂話や陰口を効果的に伝える事は大人数で協力するためには不可欠である。約七万年前に出現した新世代のサピエンスは何時間も噂話を出来る言語能力を身に付けた。
 
 


 
 

今日でさえ我々人類のコミュニケーションの大多数は電子メール、電話、新聞などいずれにせよ「噂話」だ。我々も公式・非公式に延々と噂話をする時間が圧倒的に多い。電車の中のスマホ、ラインは噂話の最たるものではないか・・?

また我々の会社でも社内のコミュニケーションは公式な会議での協議や決定が大きな協業の力になるのではなく、必ずその裏に社員同士の非公式な会話、噂話、陰口「A君は今度の新車はトヨタの△△のフル装備車を買うらしい・・・。」「Bさんは来春結婚するらしい・・・。」「C君は昨夜奥さんに・・・で大層怒られたらしい・・・。」等が間接的に大きく協業を支えています。

実際ヨネダの構成員として働いていて社員同士の非公式なコミュニケーション(噂話、陰口)が物事の実行を大きく支えていると強く実感します。

サピエンスは虚構のお陰で物事を想像するだけでなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や近代国家の国民主義の神話のような共通の神話を私たちは紡ぎ出すことが出来る。そのような神話は大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。蟻やミツバチも大勢で一緒に働けるが彼らのやり方は融通が利かず、近親者としか上手くいかない。オオカミやチンパンジーは蟻よりも遙かに柔軟な形で力を合わせるが、少数の親密な個体でしか出来ない。ところがサピエンスは無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。
 

 

先日お客様の処へ土地の登記の件でお邪魔した。隣地が里道で地域の方の共有名義になっている。

司法書士さん「・・・『権利能力なき社団』ですので個人登記になっていますね。」

「権利能力なき社団」とは・・・??

我々が虚構を信じる良い例ですね。

最大の虚構と言えば「貨幣」ですね。

米国ドルは米国と反体制の国々でも交易に使える。

サピエンスは虚構を信じることによって巨大な交易のネットワークをあっという間に作り上げた。

今の「ビットコイン」も虚構の産物ですね。

・・・・我々の泥取りの阿吽の呼吸のフローチャートの出現も実はアフリカ大陸の片隅から続くこの「認知革命」によるものだ・・・・大げさか^^;
 
 
・・その後約1万年前に始まった「農業革命」でサピエンスは新たな局面を迎える。単位面積あたり暮らせる人の数が爆発的に増加し、かつて小集団に分かれて植物や小動物を狩猟して暮らしていたサピエンスは定住し、統合への道を歩み始める。

農業革命によりサピエンスは日の出から日の入りまで、種をまき、水をやり、雑草を抜き、青々とした草地に羊を連れていくようになった。単位面積あたりの植物の収穫は増えたかも知れないが以前は一日あたり僅かな時間の植物の採取や動物の狩猟で済んでいた労働時間は飛躍的に長くなりサピエンスは一日中拘束されるようになった。自然の作物や小動物の狩猟生活に比して干ばつ、イナゴ、天災へのリスクは飛躍的に高まった。女性は定住することにより妊娠、出産、子育ての環境的には恵まれるようになった。

農業生活に入りより多くの土地を必要とするため部族間の闘争も飛躍的に増えた。

農業革命により学者は人類にとって大躍進と言うが、果たしてそうだろうか?農耕民は狩猟民より一般的に困難で満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟民はもっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が少なかった。人類は農業革命により手に入る食糧の総量は増やす事は出来たが、食糧の増加は、より良い食生活やより長い休暇には結びつかなかった。むしろ人口爆発やエリート層の誕生に繋がった。

それは誰の責任だったのか?犯人は一握りの小麦、芋、ジャガイモ等の植物種だった。サピエンスはそれらの植物種によって逆に家畜化されたのだ。農業革命は・・・一つの大きな欺瞞であった。農業革命以前の捕食生活の方が労働時間も短く、外的環境の変化に耐性が高かった。

・・・統合への道を歩み始めたサピエンスだがその動きを早める原動力となったのは「貨幣」「帝国」「宗教(イデオロギー)」という三つの普遍的秩序であった。特に「貨幣はこれまで考案されたもののうちで最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度であった。」

農業革命が起こってもそれぞれの村落は狩猟採集民と同じく自給自足の経済単位で、相互の恩恵と義務にくわえて、外部の人々と物々交換で維持されていた。だが都市や王国が台頭し、輸送インフラが充実すると専門化の機会が生まれた。複雑な交易の媒体として貨幣が様々な形で生まれた。「他人が信じ、自分が信じ」れば貨幣経済は成り立つ。サピエンスが身に付けた能力=「虚構」を信じれば交易のネットワークは拡がっていくわけだ。現在の地球上のお金の内、貨幣の数はごく僅かで大部分はコンピューター上の残高に記載されているだけだ。黒田氏がバズーカ砲をぶっ放し、麾下の日銀が質的・量的異次元緩和で市中銀行から長期国債を買い入れれば単純に市中銀行の日銀当座預金にコンピューターで残高が記載されるだけだ。宅急便問題で揺れる今の日本で、日銀から日通のトラックでせっせと市中銀行に札束を運ぶわけではない。

・・・16世紀になるまで地球を一周した人間は一人も居なかった。だが1512年マゼランの遠征艦隊が約3年かけて7万2千キロメートルの航海を終えてスペインに帰り着いた時に歴史が変わった。科学革命の始まりであった。1500年頃まで人間は地表に閉じこめられていた。1873年ジューヌ・ベルヌは裕福なイギリスの冒険家フィリアス・フォッッグが80日間で世界を一周出来るかも知れないと考えた。1945年には米国の科学者がニューメキシコ州アラモゴードで世界初の原子爆弾を爆発させた。1969年には人類は月に降り立った。

西暦1500年頃まで、世界中の人類は医学や軍事、経済の分野で新たな力を獲得するとは思えなかった。だが人類は過去500年間で科学研究に投資をすることで自らの能力を高められると次第に信ずるようになった。これは経験的に繰り返し立証された事実だった。富裕な人々や政府はますます多くの資源を喜んで化学に投入した。

「太陽は地球からどれだけ離れているか?」近代前期の天文学者の興味をそそったのがこの問題だ。何年かに一度、太陽と地球を結ぶ線上に金星が通過する。同じ日の金星による日面通過時間を異なる大陸から観測を行えば、あとは単純な三角法を使うだけで太陽から地球までの正確な距離が観測できる。ヨーロッパから多くの観測部隊が世界各地に出向いた。イギリス王立協会はチャールズ・グリーンをタヒチに派遣し労力を惜しみなくつぎ込んだ。とはいえ多額の遠征費用をつぎ込むので学問上の科学者8人のチームが同行した。最新の化学機器を積み込んだ遠征隊は経験豊富な船乗りで地理や民族史にも明るいジェイムズ・クックを船長に指名し船出した。

クックの遠征で最も恩恵を受けたのが医学であった。当時遠洋航海では壊血病という恐ろしい病気に水夫は悩まされていた。イギリス人の医師ジェームス・リンドによって航海中に柑橘類を食べることが推奨され克服された。今で言うビタミンCであった。イギリス海軍はリンドの実験に納得しなかったが、クックは違った。船にザワークラウト(キャベツの漬け物。乳酸発酵による)を積み、上陸した時はたっぷりと新鮮な果物と野菜を食べるように指示し、数え切れないほど多くの乗客や水夫の命が救われた。

クックは経験豊富な航海士であり海軍士官であった。武装された船はイギリス海軍から提供された。クックは「発見した」島々をイギリス領とした。その最たる例はオーストラリアだ。オーストラリア、タスマニア、ニュージランドの征服や新たな植民地への何百万人ものヨーロッパ人の入植、先住民の文化の根絶や先住民の殺戮の出発点となった。

1500年から1750年までヨーロッパは「外界」つまり南北のアメリカ大陸と諸太平洋の支配者となった。しかし世界では地中海地方のオスマン帝国、ペルシアのサファヴイー帝国、印度のムンガル帝国、中国の明朝と清朝の黄金時代であった。当時アジアは世界経済の八割を占めていた。中国と印度だけで世界経済の2/3を占めていた。ヨーロッパはアジアに比べると赤子のようなものであった。

1750年から1850年にかけてヨーロッパ人がアジアの国々を相次ぐ戦争で倒し領土を支配し、世界の権力の中心をヨーロッパに移した。なぜユーラシア大陸の末端に済むヨーロッパ人が、どのようにして世界の中心からほど遠いこの片隅から抜け出し全世界を征服したのだろうか?1850年以降、ヨーロッパが軍事・産業・化学複合体の魔法のようなテクノロジーを大きなよりどころにしていたのは間違いない。

中国人やペルシア人は蒸気機関のようなテクノロジー上の発明(模倣や買い取りを含めて)を欠いていたわけではない。彼らに足りなかったのは、西洋で何世紀にもかけて形成され成熟された価値観や神話、司法組織、社会的な構造で、それらは直ぐに模倣したり取り込んだり出来なかった。アメリカや仏蘭西が直ぐにイギリスを見習ったのはアメリカや仏蘭西はイギリスの最も重要な神話や社会構造を既に取り入れていたからだ。例外的に日本が19世紀末に西洋をキャッチアップできたのは明治時代に日本が並はずれた努力を重ねテクノロジーを学び、他方社会と政治の多くの面をヨーロッパを手本にし学んだ事実を反映している。

科学革命の推進のエンジンは帝国主義と資本主義であった。お互いがフィードバック・グループとなり歴史を動かす最大のエンジンになった。進歩は、科学と政治と経済の相互支援に依存しており政治と経済の機関が資源を提供し、そのお返しとして科学研究は新しい力を提供する。政治と経済も科学の新しい力を使って影響力を獲得する。アジアが後れを取ったのは、テクノロジーが欠けていたのではなく、西洋のような「探検と征服」の精神構造と、それを支える価値観や神話、司法、社会政治体制を持たなかったからだ。

・・・さてサピエンスの歴史は良いことずくめだったようにみえるが果たしてそうだろうか?地球上の生物からみれば景色は一変する。サピエンスはあらゆる生物の内で一番地球上の動植物を絶滅に追い込んだ。ネアンデルタール人など私たち以外の人類種も含まれる。家畜化された動物の幸福度から言えばサピエンスの歴史は惨劇の歴史となる。

・・・サピエンスは今後どのような世界に向かうのか?サピエンスの未来は自然選択の法則を打ち破り生物化学的に定められた限界を突破しつつある。IPS細胞、幹細胞の技術に大きな期待を寄せられている。サイボーグ工学的にも様々なことが可能になろうとしている。サイエンスフィクションの世界も現実になろうとしている。
 
 
 

 
 

「私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかも知れないので、私たちが直面している真の疑問は『私たちは何になりたいのか?』ではなく『私たちは何を望みたいのか?』かも知れない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて充分考えていないのだろう」

歴史の選択は人間の利益のためになされるのではない・・・。歴史が歩を進めるにつれて、人類の境遇が必然的に改善されるという証拠は全くない

「歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ」

            「サピエンス全史 上・下」ユヴァル・ノア・ハラリ著より一部抜粋(画像も含む)
 
 

・・・如何でしょうか?

頭の中の固定観念が大きく揺るがされた気がします

なにわともあれ・・・社会は噂話・陰口で動いていることを改めて実感させられました。

以前あるお役所の営業をしている時にこんな事をお聞きしました。

そのお役所では人事異動の時に事前に意図と違う噂をわざとに流し、皆の反応をみて改めて正規の人事異動を発令するそうです。

これもサピエンスの身に付けたたぐいまれな能力=「噂話をする能力」かもしれませんね^^;

 
 

 
 

 

雨水

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立春も過ぎ、日差しも心なしか暖かい日が訪れるようになりました。

二十四節気では「立春」の次は「雨水」(雪から雨に変わる季節。二月十八日頃)を指すそうです。

 
 
先週の日曜日に家族で神鍋高原にスキーに行ってきました。

午後からの出発でしたが天候も何とかもち、楽しく遊んで帰路に就きました。

スキー場直前の峠は前日の積もった雪がパック状態になっており道路一面真っ白でした。

少しくだりかけますと車の渋滞が始まりました。

渋滞の原因は把握出来ませんでした。

15分ほど待ってますと前の子供連れの姫路ナンバーのジープから若いご主人がスコップをもってすたすたと前の方に歩いて行かれました。

廻りの車からも渋滞の原因を掌握しようと三々五々前方に見に行かれました。

10分ほどすると前の車のご主人がスコップを持って肩で息をしながら笑顔で上がってこられました。

どうやら前方でスタックし道路に横になってしまった車をご主人が掘り出されたようでした。

「・・・なんと段取りの良い人」とすこぶる感心しました。

「・・・世の中には頭のいい人がいるんだ。」と思いました。
 
 
 
 
 
その連想で最近読んだ「渋江抽斎」森鴎外著の主人公渋江抽斎の四番目の妻五百(いお)の事を思い出しました。
 
 

渋江抽斎は江戸時代天保の頃、弘前藩の城主津軽順承(つがるゆきつぐ)付きの医官であった。父の代から江戸神田に住み医師のかたわら考証家・書誌学者として当代並ぶもの無しと謳われた。心を潜めて古代の医書を読むことが好きで、自ら奉ずること極めて薄い人であった。書以外では客(かく、書生)を養うことが好きであり、好劇家で同好の士と平土間で観ることを好んだ。

当時は今のように医療が発達しておらず、抽斎の娶った妻や子供は次々と亡くなった。

五百(いお)は山内中兵衛の二女。中兵衛は神田で鉄物(かなもの)問屋を出し、詩文・書画を善くした。屋号は日野屋であった。抽斎の父充成(しげなり)と昵懇であった。

抽斎の身分は三番目の妻徳が亡くなり、山内氏五百(いお)が来ることになったころは、幕府の直参となっていた。交際は広くなる。費用も多くなる。五百は卒にその中に身を投じ、難局に当たらねばならなかった。五百があたかもその適材であったのは抽斎にとり幸いであった。
 
さて、五百の縁談の話。

兄栄次郎は二十九歳の五百に上野広小路の呉服店の通い番頭を婿に迎え、妹に日野屋を譲り自分は浜照(娶った元吉原の娼妓)を連れて隠居しようとしていた。

「学問のある夫が持ちたい。」と五百が拒絶。

「渋江さんの奥さんの亡くなったあとに自分を世話してくれまいか。」と両家と昵懇な医師石川貞白と頼み込む。

抽斎四十歳、五百二十九歳。

意図がわからず、貞白が問いただすと

「私は婿を取ってこの世帯を譲って貰いたくはありません。それよりか渋江さんの所に往って、あの方に日野屋を後見(うしろみ)して戴きたいと思います。」

貞白は五百の深慮遠謀に驚いた。もし五百が尋常の商人に嫁いだら、聖堂(湯島聖堂。孔子廟。幕府直轄の学問所)に学んだ兄栄次郎も姉の夫宗宇衛門も商人の嫁である五百の意志を軽んぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗宇衛門も五百の前に項(うなじ)を屈せなくてはならない。この際、潔く生家を去って渋江氏に往き、しかも渋江氏の力を借りて、日野屋に監督を加えようとしたのであった。
 
 
抽斎はその後コレラで亡くなるが、その後継のグレートマザーとして五百は渋江家の要となり鴎外の時代へ続いていきます。

・・・・読みながら「なんと頭のいい人」と思った次第。
 
 
 森林太郎(鴎外)
 
 

・・・「下谷叢話」永井荷風著を読んで関連して「渋江抽斎」至りました。「下谷叢話」は永井荷風の母方の祖父鷲津毅堂(わしずきどう)とその親族である大沼沈山を囲む江戸・明治時代に至る漢詩檀の人々を記しています。幕末維新の激動の世の中に背を向け、折々に墨水(隅田川)に船を浮かべて観月の宴をはり或いは折にふれて旅に出、漢詩を詠む人々を描いています。荷風の目には変わり果てた明治・大正期から江戸期への幻視があるように思われます。

森鴎外は軍医総監まで上り詰めた医官でありました。一方文筆活動をするなか本の好事家(ヂレッタント)として江戸時代の武鑑(江戸時代の大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを書いた年鑑形式の紳士録。江戸に集まる武士と取引をする町人たちに重宝がられた。)を読み進める中で自分と同じく医官であり古書の考証家であった渋江抽斎に興味を持ち、末裔の人々に取材を重ねながら書き上げております。

「わたくしはまたこういう事も思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。そのあとが頗(すこぶ)るわたしと相似ている。ただその相殊(あいこと)なる所は、古今時を異(こと)にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今大きい差別(しゃべつ)がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎を視て忸怩(じくじ)たらざるを得ない。
 抽斎はわたしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたしの比(たぐい)ではなかった。廻(はるか)にわたくしに優(まさ)った済勝(せいしょう)の具を有していた。抽斎はわたしの畏敬すべき人である。」渋江抽斎 森鴎外著より
 

荷風は文学上の絶対の師森鴎外の「渋江抽斎」を読み大きく感銘し、自分の母方の祖父鷲津毅堂とその周辺の人々について書くことを決意しております・・・
 

 
 
 
 
 

 
 

満腹

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先週はなんと6日連続の宴席があり、さすがにビックリしました。

業界・協力業者会・組内の新年会、リフォーム篠山店のYさんの婚礼でした。

早寝早起き、小食小飲知足で乗り切りましたw

婚礼も大変盛り上がりYさんカップルの笑顔と共に良い思い出となりました。


(photograph by R.Usami)
 
 
 
 
 

閑話休題。

今年も新卒の採用活動の時期が近くになり、F女史と打ち合わせをしていました。

学生さん向けの簡単な冊子を作っており、新人の分の原稿を加えるので見せて貰っていました。

皆、上手に描けていました。

秀作は・・・、

2年目のN君の作品でした。

 
 
日々の仕事の満腹感がそこはかとなく・・・・、伝わってきますね(微笑)

愛されキャラのN君です。

洲本の現場では先輩が彼のズボンのポケットが破れているのを見つけて後ろ姿を写真に撮り、「こんな格好はやめましょう。正しい作業服装を。」と事務所に掲示していました。

別途発注の電気工事業者さんには彼の身を惜しまない仕事ぶりに「こんな子はおれへんわ。」と絶賛されました。

今朝の雪かきも彼だけスコップが無く、一生懸命グレーチングの上で長靴で雪を踏み落としていました。

将来が大いに嘱望されますw

謹賀新年

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新年明けましておめでとうございます。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
 

 
 
 
 
朝のリレー
 

カムチャッカの若者が

きりんの夢を見ているとき

メキシコの娘は

朝もやの中でバスを待っている

ニューヨークの少女が

ほほえみながら寝がえりをうつとき

ローマの少年は

柱頭を染める朝陽にウインクする

この地球では

いつもどこかで朝がはじまっている
 

ぼくらは朝をリレーするのだ

経度から経度へと

そうしていわば交替で地球を守る

眠る前のひととき耳をすますと

どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴ってる

それはあなたの送った朝を

誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

(谷川俊太郎「谷川俊太郎詩集 続」)
 
 


(photograph by Akiko Morita)

もろみ

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時間が空いたので大江町の旧知の老夫婦を訪ねる。

先日の福知山マラソンの応援時、小雨降る中大江町の○○橋の橋の上でばったり出くわす。

二十年近く前に関連会社の西部開発の砂利採取事業をした時に地元の地権者の取り纏め役で大層お世話になった。

お二人共破顔一笑。

奥様「まあ~びっくりしたね。こんなところで出会えるなんて・・・w。そうそう・・・社長さんの好きなもろみがあるので取りによって下さい・・。」

「又お伺いします。」

でお別れした。
 
 
 
簡単な菓子折を片手にお伺いするとお二人ともご在宅で

「ちょっとまってください・・・。」

暫しして出てこられた。

「まあ・・・郵便局の人かと思ったら社長さんやった・・・w」」

玄関でストーブをつけていただき暫し歓談。

ご主人は耳が随分遠くなられて補聴器をつけておられた。

「障害者○級になりまして・・・・、自動車の免許更新研修では85点で・・・。次回は(免許を)かえそと思うております。」

ご結婚が遅かったご子息も今はご結婚され離れで暮らしておられる。

お孫さんが小学校二年生らしい。

お婆さまはお孫さんに

「あなたと出会えるとはおもわなんだけど出会えて・・・wこれから何年一緒に過ごせるやろか?」

と嬉しそうに言われるらしい。(微笑)

玄関や外に沢山の金魚や鯉などを飼われている。

干し柿やお茶を出して頂く。大変美味しい。
 
 
庭で採って頂いたみかんともろみを頂き辞去する。

高台の家からお二人見送って頂く。

奥様から「まあ・・・嬉しかった!」との声。

見上げると笑顔のお二人はとても小さくみえた。
 
 
思い返すと年末に訪問した時は毎年切り餅を頂いたり、都度都度野菜やもろみや新米を頂いた。

ある年末は地権者を廻ると猟師さんの家で猪肉を頂き、こちらで切った野菜を頂き「このまま猪鍋できるなぁw」と驚いた事がありました。

帰って日報を見てみるとこの前に訪問したのは二年前の初夏で近所に来たついでにお寄りして、何故かハワイの深層水を頂いた。
 


 

いつの間にかご主人は93歳、奥様は88歳になられていた。

「もろみ」のお話しが何時までも耳に残り懐かしく訪問させて頂きました。
 
 
 
 
なにごとの おはしますをば しらねども

かたじけなさに 涙こぼるる

(西行)