「俺が始末するら~♪」

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日曜日から1泊2日でユーミーマンション施主会で高知へ旅行してきました。

初日は晴れ後曇り、翌日は雨模様となりました。

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総勢22名、最年長は御年93歳の大先輩でした。

毎年ご一緒しているため、皆さん顔見知りでくつろいだ旅となりました。
 
 

昼は高知城と日曜市、夜は陽気な土佐芸伎とのお座敷遊びでした。

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♬菊の花〜 菊の花〜 開けてうれしい菊の花
♬誰が取るのか菊の花〜

 
 
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全員で順番に盃を空けていき、当たった順番の数だけ盃を飲み干すゲームでした♪

 
 

 
次は可盃(べくはい)。
 

♬べろべろの〜 神様は 正直な神様よ~
♬○○のほうへと おもむきゃね おもむきゃね~

 

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可愛い絵柄の独楽を廻して、当たった人が盃を飲み干すものでした。

陶器のおかめ・ひょっとこ・天狗の盃があり、全てに穴が空いていました・・・。

飲み干さないと盃を置けないものでした。。
 
 
 
皆で大笑いして夜は更けていきました。

お料理も美味しく鰹のたたきを塩で食べたのが素晴らしかったです。
 
 
 
昼間、日曜市のそばの公園で人だかりがしていました。

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将棋を指しておられました。

観客も多く、外野から思い思いの事を言っておられました。

「・・・筋がわかっとらんき~。」(ペットボトルの男性)

「・・・(ペットボトルの男性を)誰か縄でしばらんき~。俺が始末するら♪」(観客その2)
 
 
 
何処までも陽気な南国土佐でした。

 
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「この数字どっかで見覚えあるやろ・・・?」

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某日、子会社の砂利採取販売の西部開発のKさんより電話。

「ネットで問い合わせが来た個人の方から4m3の砂利の配達の見積もりが、サイズが40mmと25mmと二通りあります。

40mmの比重は2.65ですけど15mmは比重が判らんのですけど・・・??

砂の比重が1.65やから工場長は『そちらに近いんやないか?』と言うてんですけど・・??」

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「ふ~ん?僕も判らんわ?・・・直ぐ行くわ。」

 
 
 
西部開発に急行。

1.15mmの砂利を台秤で量る

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2.水を500ccいれた円筒形のビーカーに入れて増えた分の体積を計る。

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3.電卓で「重さ/体積」を出す。

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電卓をKさんに差し出す。

「この数字、どっかで見覚えあるやろ?」

「アッ !!」

Kさんの顔が輝く。

・・・上機嫌で帰りの車中思い出しました。

大学1年の頃化学の授業をとっていて毎回半分が講義、半分が実験でレポートを提出したら帰れるという形式でした。

毎回1番に教室を退出することを自分に義務付けしており、思わぬところで役にたちましたw

幼き日

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最近、しきりに幼少時からの父母との記憶を思い出す。

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1.生まれて最初の記憶は父の膝の上でグリーンピースのようなものを吐き出しだしている光景。

どうも母の言によると、昼間父と仕事をしていた後述のOさんの奥さんから

「洋一・・・!」

と言って生きた鶏を顔に近づけられたらしく、夜ひきつけを起こしたらしい。

 
 
2.次の記憶は幼少時今の隣の部屋の畳の上で寝ていると若き頃の叔父に身体をつつかれた光景。

此の叔父には3年前に亡くなるまで幼少時からとてもかわいがって貰った。

子供の頃から何回も鮎捕りに連れて行ってもいらった。

中学2年生の春休みに初めて小豆島・高松・高知・宿毛への一人旅をした折、未明に駅まで送って貰った。
 
unnamed7 (母のメモ)

unnamed (叔父)
 
 
3.その次の記憶は内記6丁目に移り、幼稚園時ぐらいと思われるが、雪の朝家の向かいの駄菓子やに卵を買いに行き帰りに雪で滑ってハトロン紙の袋の卵を割ってしまった記憶。

帰ってみせると父母がニコニコと笑ったこと。
 
 
4.小学校入学式の頃家でランドセルをしょっていると父と仕事をしているOさんがやって来て、

「洋一、ランドセルがあるいとるみたいやなぁw」

と冗談を言われたこと。

unnamed6(米田組社員旅行 中央の目を閉じているのがOさん)
 
 
 
諸々、幼少時から自分をそだててくれた両親、叔父や親族、Oさん等との一つ一つの光景がとても懐かしいです。
 
 
 

今年の春

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心待ちにしていた三月になりとても嬉しいです。

毎年、寒の厳しい間は

「もう一月で三月や・・・。春が来るw」

「厄神さんが来たら寒も終わりやし・・・。」(厄神さんのお祭りの頃に雪が多い)

等と春を心待ちにしていました。

 
昨日は雨の中、内田町の分譲地で1棟目の地鎮祭を行いました。

お客様を待っている間、一宮神社さんの宮司様と厄神さんの話していました。

「高良厄除神社というらしいですね。今年は会社に年男が何人かいて参ったようです・・・。」

「厄神さんは旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ)を裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)が断りと兄・蘇民将来(そみんしょうらい)が貧しいながらももてなしたという故事から来ています・・・。武塔神は疫病を避けることができる神様で・・・。」(宮司さん)

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お客様がおみえになる。

若いご夫婦と3歳ぐらいの女の子。

無事地鎮祭を済ませ帰られる。

帰り際、女の子とハイタッチw

前回の着工式で、私と大分カラーボールやサッカーボールを投げっこした仲。

最初は私に対して無言だったが、・・・時間がたつにつれ思い出してくれたのかも・・・w
  
 
最近は着工式で子供さんと遊ぶことが多い。

ご両親には担当者が図面の説明等している。

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私のパターンとしては・・・、

1.おもむろに社長室の横から、インデイアン?のテントを持ってくる。 (序)

2.子供さんはやはり興味があるらしく、直ぐにテントに入られる。

3.おもむろにカラーボールをテントに投げる。     (破)

4.いつの間にかカラーボールの投げ合いになる。    (急)

先日も1歳4ヶ月の女の子とカラーボールの投げっこが始まる。

だんだんテンションが上がってきて社長室の会議テーブルを挟んで相手に向かって転がしっこ。

キラキラとした顔で笑ってくれるw

帰りのお見送りの時は勿論、車中からハイタッチの連続。(祝言)

とても幸せな気分になるw

(括弧書きは世阿弥の能楽論から?)
 
 
 
先日お昼に家によると、なにやら子供さんのおもちゃやリュック、水筒が居間に置いてある?

「はは~ん・・・、子供さんをあずかっているんやな・・・。」(微笑)

じゃましたらいかんので出かけようとすると、家内が3歳ぐらいの男の子の手を引いて公園から帰ってくる。

「ご飯たべていき。」

とのことで○平君と一緒に食事w

とても愛らしい。

私の前でお母さんが作ってくれたとても可愛らしいキャラ弁を食べられる。

いろいろと話してくれるw

「またおいでよ○平君」

と頭を撫でて家を出る。

先日からファミリーサポート事業の手伝いを我が家でやっています。
 
 
子供さんとご一緒することの多い今年の春です。
 
 
 
 
 
引いてやる 子の手のぬくき 朧かな
               (中村汀女)
 
 
 

天草

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先週、仕事を兼ね天草まで行って参りました。

心易くしていただいている社長さんが天草におられるため、本来なら東広島の会場のところを空路、天草に向かいました。

家内も帯同しました。

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熊本空港でレンタカーを借りて、天草市本渡へ向かいました。

3時間余りかかりました。

天草五橋といわれる島や湾を横切る大きな橋からの島原湾や天草灘の眺めは雄大なものでした。

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研修会の合間に天草キリシタン館に連れて行っていただきました。

「天草・島原の乱」を我々は知っている程度ですが、天草のキリシタン文化を興味深く見学しました。

当時のキリシタン弾圧と重い年貢の徴税に対して島原・天草地方の3万7千人の農民が立ち上がり幕府軍10万人と戦ったそうです。

特に原城の激しい攻防戦は90日に亘って繰り広げられたそうです。
 
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戦いのシンボルとしてとなった天草四郎時貞(関が原の戦いで破れた小西行長の遺臣益田甚兵衛の息子益田時貞)は当時15歳。

展示してあった当時の墨で書かれた記録に「才知、並ぶものはなし。」と書かれていました。

地図を見てみますと西からの南蛮文化(ポルトガル、スペイン。もともと中華思想からきており南方の帰順しない蛮族を指す。四夷の一つ)の渡来地は、長崎地方、島原天草地方、鹿児島地方と地政学的になります。

・・・これより我々は天草地方に影響を与えたキリシタン文化、南蛮文化を見て歩くことになります。
 
 
 
翌日は小雨模様でしたが車を天草灘に沿って南に走らせ大江天主堂、瀬崎教会、牛深などへ足を運びました。

天草、あまくさ、Amakusa・・・・・、雄大な天草灘をみて走っているうちに、唯一知っていることを思い出しました。

以前、江戸時代の歴史家頼山陽(主著に日本外史がある。)の詩集に「泊天草洋」と言う詩がありました。

泊天草洋

雲耶山耶呉耶越
水天髣髴青一髪
萬里泊舟天草洋
煙横篷窗日漸没
瞥見大魚波間跳
太白當船明似月

遠くに見えるのは、雲だろうか、山だろうか、それとも呉の地だろうか、越の地か。
水平線との境に、髪の毛のような青い一筋が連なっているのがみえる。
万里の彼方に広がる天草洋に舟を泊めて、夕もやが舟の小窓あたりにたなびいて、太陽はしだいに西の海に沈んでいく。
一瞬、波間に大きな魚がびとび跳ねるのが見えた。
空には、宵の明星の金星の光が舟にあたり、それは月の輝きのように明るかった。
 
 
 
途中、「五足の靴」ゆかりの記念碑がありました。
 
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「五足の靴」とは明治の終りに九州を旅した5人の文学青年たちが東京の新聞社に書き送った紀行文の題名だそうです。

新詩社主宰の与謝野鉄幹と、その同人である学生の北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の5人だそうです。

白秋の生家柳川を訪ね、その後天草西海岸沿いを旅したそうです。

5人は大江の天主堂で、あこがれの宣教師パーテル神父に会うことによって旅の最大の目的を果たし終えます。
 
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この旅での体験は、紀行文「五足の靴」以外にも、木下杢太郎は詩集「天草組」、北原白秋が「天草雅歌」や「邪宗門」などで発表したそうです。

5人の青年時代の天草の旅は、彼らの南蛮文学をはじめとする、その後の創作活動や人生に大きな影響を与えていったそいうです。
 
 
江戸時代から明治時代へ人々を旅にいざなう天草、・・・私もキリスト文化と温暖な天草灘の眺めに旅情をかきたてられました。
 
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