先週、仕事を兼ね天草まで行って参りました。
心易くしていただいている社長さんが天草におられるため、本来なら東広島の会場のところを空路、天草に向かいました。
家内も帯同しました。
熊本空港でレンタカーを借りて、天草市本渡へ向かいました。
3時間余りかかりました。
天草五橋といわれる島や湾を横切る大きな橋からの島原湾や天草灘の眺めは雄大なものでした。
研修会の合間に天草キリシタン館に連れて行っていただきました。
「天草・島原の乱」を我々は知っている程度ですが、天草のキリシタン文化を興味深く見学しました。
当時のキリシタン弾圧と重い年貢の徴税に対して島原・天草地方の3万7千人の農民が立ち上がり幕府軍10万人と戦ったそうです。
特に原城の激しい攻防戦は90日に亘って繰り広げられたそうです。
戦いのシンボルとしてとなった天草四郎時貞(関が原の戦いで破れた小西行長の遺臣益田甚兵衛の息子益田時貞)は当時15歳。
展示してあった当時の墨で書かれた記録に「才知、並ぶものはなし。」と書かれていました。
地図を見てみますと西からの南蛮文化(ポルトガル、スペイン。もともと中華思想からきており南方の帰順しない蛮族を指す。四夷の一つ)の渡来地は、長崎地方、島原天草地方、鹿児島地方と地政学的になります。
・・・これより我々は天草地方に影響を与えたキリシタン文化、南蛮文化を見て歩くことになります。
翌日は小雨模様でしたが車を天草灘に沿って南に走らせ大江天主堂、瀬崎教会、牛深などへ足を運びました。
天草、あまくさ、Amakusa・・・・・、雄大な天草灘をみて走っているうちに、唯一知っていることを思い出しました。
以前、江戸時代の歴史家頼山陽(主著に日本外史がある。)の詩集に「泊天草洋」と言う詩がありました。
泊天草洋
雲耶山耶呉耶越
水天髣髴青一髪
萬里泊舟天草洋
煙横篷窗日漸没
瞥見大魚波間跳
太白當船明似月
遠くに見えるのは、雲だろうか、山だろうか、それとも呉の地だろうか、越の地か。
水平線との境に、髪の毛のような青い一筋が連なっているのがみえる。
万里の彼方に広がる天草洋に舟を泊めて、夕もやが舟の小窓あたりにたなびいて、太陽はしだいに西の海に沈んでいく。
一瞬、波間に大きな魚がびとび跳ねるのが見えた。
空には、宵の明星の金星の光が舟にあたり、それは月の輝きのように明るかった。
途中、「五足の靴」ゆかりの記念碑がありました。
「五足の靴」とは明治の終りに九州を旅した5人の文学青年たちが東京の新聞社に書き送った紀行文の題名だそうです。
新詩社主宰の与謝野鉄幹と、その同人である学生の北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の5人だそうです。
白秋の生家柳川を訪ね、その後天草西海岸沿いを旅したそうです。
5人は大江の天主堂で、あこがれの宣教師パーテル神父に会うことによって旅の最大の目的を果たし終えます。
この旅での体験は、紀行文「五足の靴」以外にも、木下杢太郎は詩集「天草組」、北原白秋が「天草雅歌」や「邪宗門」などで発表したそうです。
5人の青年時代の天草の旅は、彼らの南蛮文学をはじめとする、その後の創作活動や人生に大きな影響を与えていったそいうです。
江戸時代から明治時代へ人々を旅にいざなう天草、・・・私もキリスト文化と温暖な天草灘の眺めに旅情をかきたてられました。