ビール党

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某日、ハチ北アルペン大会に出てきました。

競技スキーを再開した友人に

「何処までやれるかやってみようかと思って・・。」

の一言に影響を受けてのことでした。

結果は・・・としておきましょう(笑)
 
 
 
さて、先日からタキトゥス(55頃-120頃)の「ゲルマ-ニア」を読んでおります。

読んでいて、思わず笑ってしまったくだりがありましので紹介します。

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著者は帝政ローマ時代の政治家、歴史家です。

属州出身でアグリコラの女婿、補充執政官を勤めています。

帝政ローマ帝国の衰亡を憂い、共和政時代の気風の回復を訴えるものが多いそうです。

著者はゲルマニア地方の風土やゲルマン諸部族の慣習・性質・伝承などを記しています。

この時代、帝政ローマ帝国の版図がライン河(レーヌ)の西のガリアといわれる地域まで広がり、カエサルによる名高い歴史書「ガリア戦記」が書かれました。

ローマ帝国が同時代より悩まされ続けるライン河の東、ゲルマニアと呼ばれる地域から蛮族の侵入がありました。

同じくドナウ河(ダーヌウィス)の東からの蛮族の侵入にも悩まされ続けました。

・・・

〔飲料・食料〕

飲料には大麦もしくは小麦より醸造(つく)られ、幾分葡萄酒に似た液があるが、(レーヌおよびダーヌウィス)河岸に近いものは、葡萄酒を購っている。食物は簡素にして、野生の果実、新しい獣肉、あるいは凝
乳。彼らは調理に念を入れず、調味料なしに飢えを癒す。しかし、かれらは渇き(飲酒)に対して節制がない。もし、それ、彼らの欲するだけ給することによって、その酒癖をほしいままにせしむるとすれば、彼らは武器によるもむしろ容易に、その酒癖によって征服せられるであろう。

〔社交・娯楽〕

観物の種類はただ一つ、しかもあらゆる歓会を通じて同一である。ただこれを楽しみにこれをなす青年たちが、裸体になって、おのれを脅かすがごとく立つ剣や、フラメアの刃の間に飛び込んで、縦横におどりまわる。修練が業を作り、業がこの妙技となったが、決して利益や報酬が目的ではない。如何にも大層な慰みとはいえ、報酬はただ、これを見るものの楽しみにある。彼らは賭博―まことに不可思議なことではあるが―彼らはこの賭博を、酔ってない時にも、あたかも真面目な仕事のごとく行ひ、しかも全てを失った場合、最終最後の一擲に、みずからの生命、自由をかけて争わんとするほどの、勝負に対する無謀さである。負ければ進んで人の奴隷となり、たとえ(勝ったものより)より若く、またより力強くとも、その身の束縛を受け、売買に供せられるのを耐え忍ぶ。この蔑視すべき事柄における彼らの頑固さは、まさにかくのごとく、しかも彼らみずからはこれを信fidesと呼ぶ。かかる事情の奴隷は、勝ったものも、みずからまた勝利の心苦しさから免れるために、取引を通じて売り放してしまう。

(「ゲルマ-ニア」タキトゥス著 田中秀央 泉井久乃助訳)

・・・

以前冬にミュンヘンの工業見本市に行ったおりに、郊外へのペンションに帰るのにIC(インターシテイー。ドイツ鉄道の新幹線のようなもの)に乗っておりました。ビジネス帰りのドイツ人の多くがパソコンをうちながらビールを美味しそうに飲んでました。

紀元1C頃からのビール党のDNAは脈々と彼らに染みついているのですね(笑)

勿論頑固なゲルマン魂も・・!

シューン、シューン♪

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昨日はハチ北高原まで滑りに行っていました。

山頂では-7℃でした。

雪質も良くシューン、シューンと滑走を楽しみました♪

木々の枝に雪がエビの尻尾のように凍てついた樹氷の眺めも格別でした。
 

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今、「フロー体験 喜びの現象学」M.チクセントミハイ著 今村浩明訳を読んでいます。

・・・文化は日々のつまらない生産活動を、可能な限りフロー活動に進化することがある。仕事と家族生活がともにやりがいのあるものでありながら、それが調和的に統合されている集団がある。ヨーロッパの高山の谷間、アルプス山脈の谷間に、産業革命を免れたこのような共同体が未だに存在している。

・・・このような地域の最も著しい特徴は、住民が仕事と自由時間をほとんど区別していないことということである・・・

ポント・トレンタックスの76歳の老女セラフィーナ・ヴィノンは、今でも牛の乳搾りのために朝5時に起きる。それから彼女はたくさんの朝食を作り、家の掃除をし、天候と季節によっては氷河直下の牧場に牛の群れを連れ出すか果樹園の手入れをするか羊毛を剥くかする。夏には彼女は高原の牧場地で草を刈り、その大きな束を頭に載せ、干し小屋まで数マイル運ぶ。寄り道をしなければ半分の時間で干し小屋に着くことが出来るが、彼女は坂道を壊さないようにするため、見分けのつかない曲がりくねった小道をたどることを選ぶ。夕方には本を読むか、ひ孫に物語を聞かせるか、週何回か彼女の家に集まる友人や親戚とのパーティーでアコーディオンを弾いたりする。

 セラフィーナはすべての木・石・山の特徴を古くからの友達のように知っている。・・・
 
 生活の中で何をするのが一番楽しいかと尋ねられた時、セラフィーナはためらわず、乳を搾ること、牛を牧場に連れ出すこと、果樹園を剪定すること、羊毛を剥くことと答えた・・・事実彼女が最も楽しんでいたのは、これまでの生活でずっと続けてきたことであった。彼女自身の表現によれば「とても楽しいのさ。外にいること、人と話すこと、家畜と一緒にいることがね・・・植物・鳥・花・動物―何とでも話しをするよ。自然の全部がずっと友達さね。自然は毎日変わっているよ。せいせいするし楽しいねぇ。くたびれて家に帰らなければならないのが残念でねぇ。・・・うんと働かなくちゃならない時だって素敵だよ」。・・・
 
 
 ・・・昔の思想家にフローという現象がどのように現れていたかを示す興味ある実例の一つは、2,300年前の道教の思想家である荘子の著作に見られるという概念である。とは進路、つまり道に正しく従うことを意味している。これは英語で「逍遙すること」「宙を歩くこと」または「泳ぐこと」「飛ぶこと」「流れること」(flowing)などと訳されてきた。荘子はが適切な生き方―外的報酬に感心をもたず、自発的な、自分の全てを委ねる―つまり全的な自己目的的経験としての生き方であると信じていた。

 いかにに従って生きるか―いかにフローにするか―の一例として、荘子は彼の名前を今日まで伝えることになった著作『内篇』の中で、身分の低い使用人の寓話を書いている。この人物は魏の恵王の宮廷で肉の解体を仕事とする料理人の丁である。・・・

「丁は魏の恵王のため牛を割いていました。手が動くたびに、肩が動くたびに、足が動くたびに、ひざが動くたびに、サクッ、サクッ。丁は包丁をシュッ、シュッと滑るように動かしました。桑林の舞を舞うように、経首の会(しらべ)に合わせるように、何もかもとても良い調子でした。」

 恵王は、自分の料理人が仕事をフローして(の状態で)いるのに心にかれ、丁の技を賞賛した。しかし丁はそれを技の問題であることを否定した。「私が心掛けているのは技を越えた道でございます」。そして彼は、どのようにして卓越した動作、やすやすと肉を薄切りにすることを可能にする、牛の構造についての一種の神秘的で直感的な理解を得たかについて述べた。「感覚や知識は、働きを止め、心だけが自由に動きます。」・・
 
 
・・・アルプスの土地を耕す老婦人、南シカゴの溶接工、古代中国の伝説の料理人は、次のことが共通している。彼らの仕事は困難であり魅力的なものではない。そして多くの人々はそれを反復的、また意味のないものと考えるだろう。しかし、これらの人々は強いられた仕事を複雑な活動に転換した。彼らは他の人々が認識しなかったところの挑戦の機会を認識することにより、その能力を高め、当面する活動に注意を集中し、後に彼らの自己がより強く現れるまで対象との相互作用に没入することによりこれを成し遂げたのである。このように変換されることによって仕事は楽しくなり、心理的エネルギーが投入されることによって仕事はあたかも自由に選び取られたもののように感じられるのである。・・・

(「フロー体験 喜びの現象学」Mチクセントミハイ著 今村浩明訳より引用)
 
 
 
・・・仕事もシューン、シューンとスキーの円弧を描くように楽しんで出来ればいいですね♪
 
 

こんな日が来るとは・・・w

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先週の土・日曜日はリフォーム福知山店・住宅事業部のお客様感謝祭でした。(リフォーム篠山店は先々週に終わりました。)

2日間で186組のお客様にお越し頂きました。有り難うございました。

子供さんたちも沢山来て頂き楽しい催しになりました。

メインイベントの恒例のお餅つきも計6回催しました。

お善哉も沢山でました。
 
 
 
夕刻、会社の先代からの取引先の自動車会社の元会長さんがお見えになりました。

今年も大きなリフォームを2件お世話になりました。

今は会社を身内の次世代の方に任されています。

「うん。・・・会社行くのは月4・5日かなぁ・・・。古い車で解らん時に工場から『来てくれ』と声がかかるんや。お客さんから直接僕に電話かかる場合もあるしなぁ。

 普段は家内が花が好きやで花を見にちょこちょこ近くに旅行したり、最近カメラを先生に就いて始めたので撮影旅行にいくで。この間も小学生の孫2人連れてバカチョンカメラを持たして○○山へ撮影に行ってきましたわ。

 ・・・パソコンもいじります。デジタル写真を整理せなあかんでなぁ。パソコンいじると時間が直ぐにたちます。ゴルフも現役の時より声がようかかるで。何時でもついていけるでなぁ。

 うん・・・今69歳やで。直ぐや・・・。

 工場を先代に建ててもろて42年。若い時は夜寝るんが惜しいてなぁ。工場の人が帰ってから、家内に工場に来てもらってガス抜くんに何回も運転席に座ってもろてペダル踏んでもろたわ。今では笑い話やけど・・・。

 若い時はこんな日が来るとは思わんかったけど・・・。」(微笑)

 
 
 とてもいいお話でした。

-5℃

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今日の鉢伏山山頂はとても寒かったです。

温度計は-5℃を指していました。

1500頃からはガスが晴れとても良いコンデションになりました。

 
 
学生時代のスキー部の友人からメールがきて、

「年末は青森県で会社のスキー部の合宿に参加します。何処まで自分がやれるかやってみようと思います・・・。

 
 
そのメールに・・・ちょっと羨望というか・・・・私の心も動き、スキー場に足が向きました。

・・・かなり・・・分かり易い人間ですねw

とても楽しかったです。
 
 
  
 
スキー

山は白銀(しろがね) 朝日を浴びて、
すべるスキーの風切る速さ。
飛ぶは粉雪(こゆき)か 舞い立つ霧か。
お お お この身もかけるよ かける。

真一文字(まいちもんじ)に 身をおどらせて、
さっと飛び越す飛鳥(ひちょう)の翼。
ぐんとせまるは、ふもとか 谷か。
お お お たのしや 手練(しゅれん)の飛躍(ひやく)。

風をつんざき、左へ、右へ、
飛べは、おどれば、流れる斜面。
空はみどりよ 大地は白よ。
お お お あの丘われらを招く。

(時雨音羽作詞・平井康三郎作曲)
 
 

明けましておめでとうございます。

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(phoptograph by Akiko Morita)

新年、明けましておめでとうございます。

ご家族お揃いで輝かしい新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
 
 
 
 
元旦に家族揃ってお雑煮を食べてると何処からともなく

「・・・まあだだよ・・・♪」

の可愛い声。

見てみるとフェンスの向こうでお隣のお孫さんがかくれんぼ。

今年も穏やかな年であることを祈っております。

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自宅でyoutubeを見ていますとアップルコンピューターの創業者のステイーブ・ジョブズ氏のスタンフォード

大学での伝説と言われるスピーチが載ってました。とても素晴らしかったのでシェアさせて頂きます。


 
 

 世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。実のところ、きょうが人生でもっとも大学卒業に近づいた日です。本日は自分が生きてきた経験から、3つの話をさせてください。たいしたことではない。たった3つです。

 まずは、点と点をつなげる、ということです。

 私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。

 私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」と。両親は「もちろん」と答えた。生みの母は、後々、養子縁組の書類にサインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではないし、父に至っては高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。

 そして17年後、私は本当に大学に通うことになった。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。当時は人生で何をしたらいいのか分からなかったし、大学に通ってもやりたいことが見つかるとはとても思えなかった。私は、両親が一生かけて蓄えたお金をひたすら浪費しているだけでした。私は退学を決めました。何とかなると思ったのです。多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。退学を決めたことで、興味もない授業を受ける必要がなくなった。そして、おもしろそうな授業に潜り込んだのです。

 とはいえ、いい話ばかりではなかったです。私は寮の部屋もなく、友達の部屋の床の上で寝起きしました。食べ物を買うために、コカ・コーラの瓶を店に返し、5セントをかき集めたりもしました。温かい食べ物にありつこうと、毎週日曜日は7マイル先にあるクリシュナ寺院に徒歩で通ったものです。

 それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができたました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。

 もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。

 繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。

 2つ目の話は愛と敗北です。

 私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。共同創業者のウォズニアックとともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。

 実は会社が成長するのにあわせ、一緒に経営できる有能な人材を外部から招いたのです。最初の1年はうまくいっていたのですが、やがてお互いの将来展望に食い違いがでてきたのです。そして最後には決定的な亀裂が生まれてしまった。そのとき、取締役会は彼に味方したのです。それで30歳のとき、私は追い出されたのです。それは周知の事実となりました。私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。これは本当にしんどい出来事でした。

 1カ月くらいはぼうぜんとしていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことをわびました。公然たる大失敗だったので、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。自分が打ち込んできたことが、やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度挑戦しようと思えるようになったのです。

 そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。

 その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。

 アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。仕事は人生の一大事です。やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。

 3つ目の話は死についてです。

 私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。

 自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。

 1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。

 一日中診断結果のことを考えました。その日の午後に生検を受けました。のどから入れられた内視鏡が、胃を通って腸に達しました。膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したと妻がいうのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。

 人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。

 誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。

 あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。

 私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。

  スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。

ハングリーであれ。愚か者であれ。(Stay Hungry. Stay Foolish.)

ありがとうございました。

(This is a prepared text of the Commencement address delivered by Steve Jobs, CEO of Apple Computer and of Pixar Animation Studios, on June 12, 2005.)日本経済新聞 電子版2015.1.2より