入梅の頃

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先週皆既月食の日のこと。

遅めの夕食の時間に屋外に皆既月食の様子(曇り)を見に行った家内が、

「あっ・・・流れ星☄️?・・・蛍!」

との事で1匹風に流されて拙宅まで来た様子です。

以前も一回拙宅まで流されて来ました。


(Wikipediaより)

直ぐにヤッケを着て上の小川まで出動。

橋の袂で蛍の群舞が見られました。

近在の家々からの灯火が少し残念・・・。

帰途高校生ぐらいの女の子と小学生の女の子が皆既月食を見に路上に立っている。

蛍の事を告げると

「えっ!マジで!」

との事で橋の方に駆け上がって行かれました。

 
 
四十三年前に弊社で施工しました但東夜久野線の広瀬橋の橋梁補修工事が始まりました。
 


 

工事期間S51年10月~S53年9月(請負者 株式会社米田組 請負金額109,245千円)で施工させて頂いた様です。弊社の専務が入社した頃ですので随分前になります。工事の進捗が楽しみです。
 
 
 
先日目の調子が悪く、旧知の眼科に上がらせて頂きました。ビルを二十年近く前に施工させて頂いており、受付のところに竣工祝いに私どもでプレゼントさせて頂いた写真が今も飾ってありました。思いがけず見られてとても嬉しかったです。

 

 

看護師さんも私の事を覚えてくださっていてこれはこれでちょと嬉しい。工事の打ち合わせは午前の診療が終わってからで丁度1300ぐらいの時刻に行くと何時も珈琲をたて頂き、なんとも言えない良い匂いが院内に立ち込めていた事を思い出します。先生もとてもお元気でした。 
 
 
家の前の鉢に菖蒲が花を咲かせました。亡くなられたT先生から頂いた菖蒲です。御所の菖蒲から株分けして頂いたものだそうです。
 


 
 
丁度T先生に建てて頂いたユーミーマンションの改修工事が始まっています。
 


 

T先生に食事に連れて行って頂いたり、会社の帰りに家で作られた鯖寿司をいただきに上がったり様々なことが思い出されます。
 

 
 
先週堀田善衞著「定家明月記私抄(全)」を読了。最後まで読みきれないかと思いましたが著者の巧みなガイドにより夜半目が覚めた時などにポツポツと読み進めました。 
 


 

鎌倉時代の公家(歌どころ)藤原定家の日記(18歳〜74歳)です。勅撰和歌集「新古今和歌集」や「小倉百人一首」の撰者。父は「千載和歌集」の撰者と知られる藤原俊成。父子共日本の歌道の代表的な宗匠。Kindle版の松岡正剛著「面影日本」から連想ゲームでこの本にたどり着きました。
 

 

来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ 
                          藤原定家 (小倉百人一首)

 
歌の解釈はとても小生には難解で言葉に及びません。鎌倉幕府が台頭する中で後鳥羽法皇(承久の乱後、隠岐に離流)の時代歌どころとして官位をあげる事を晩年まで倦くことなく追及。

「一月一日 少年ノ中将多シ」
「一月廿ニ日 除目遅ク聞ク。内心甚ダ冷シ」
「十月廿ニ日 正二位ハ人臣ノ極位ナリ。乱世ニ逢ワザレバ、争カ之ニ除センヤ。身上ノ得分ト謂フベシ。尤モ稀代ノ珍事ナリ。心中甚ダ自愛ス」

又平安文化が終焉していく中で京が無政府状況となって群盗横行、放火等苦慮する有様や宮づとめで天皇や上皇の動きに合わせて何度も衣装を変えついて歩く苦労等が延々と書かれています。

「二月六日 北辺毘沙門堂ノ南ニ群盗入ルト云々」
「七月四日 去ル夜、三条坊門猪隅ニ炎上アリト云々。(中略)群盗車ニ乗リ、入ラントス。距テ戦フノ間、火ヲ作ク。一町許リ焼ク」
「四月廿日 年号毎日改ムト雖モ、乱世ヲ改メザレバ、何ノ益カアラン」
「二月十五日 風雪。甚ダ寒ク・・。今朝、召シニ預カル遊君、各々ニハ衣裳ヲ賜フト云々。予ノ如キ貧人、此ノ中ニ入ラズ」
「五月廿六日 予、燈暗ク、目見エザル間、明日書キ進ラスベキ由、宗長・清範ニ触レテ退出ス。老眼疲レニ依リテナリ。御共ニ参ジテ退出ス。身体疲レ痛ム。辛苦極マリ無シ。久シク御前ニ座ス故ナリ。終夜病悩、須ク家ニ帰ルベシ」
「相励ムモ益無キノ身、奔走老身ノ身、病ト不具ト、心中更ニ為方(せんかた)無シ。妻子ヲ棄テ、家園ヲ離レテ、荒屋ニ臥ス。雨、寝所ニ漏ル。終夜無聊。浮生何レノ日ニカ、一善ヲ修セザラン。悲シキ哉。」
「一月九日 明後日行啓ニ参ズベシト。予云フ、行啓トハ何事ゾ。答エテ云フ、東宮ノ行啓ナリト。問ヒテ云フ、東宮トハ誰人ノ御事ゾヤト。」
「甚ダ由無キ官任ナリ」(何も「定家明月記私抄(全)」より)

冷泉家から本書の一部を借り受けたりしながら難解な本書を戦時中から四十数年間向き合い続けた著者の労作です。わからないなりに少し中世に触れた気分です。

「歌人藤原定家の日記『明月記』の國書刊行会版(明治四十四年刊)を手にしたのは、戦時中のことであった。また、藤原定家の和歌の中に、世界文学においての、最高水準に達したものがあることに気付いたのも同じく戦時中の事であった。しかしこの歌人の『明月記』は、いわば幻の書であった。多くの人がその存在をしり、それが晦渋な漢文で書かれているために、通して読む人はほとんどいなくて、しかもこの日記からの引用文ばかりが国文学や国史の研究書に実に頻繁に引用されている。あたかも『明月記』は、部分引用されるためだけに存在してるかの観があった。誰もがその名を知りながら、少数の専門家を除いては、誰もが読み通したことがないという、それは異様な幻の書であった。戦時中から四十数年間、私はぼつぼつとこの幻と付き合って来た。定家が三十歳になったところを、三十歳の私が読み、定家が五十歳のところを、五十歳の私が読み、という風にして付き合って来た・・・。」(「定家明月記私抄(全)」後記ー幻の書 より)

宮崎駿監督が自分の映画で最も影響を受けたのは堀田善衞氏だそうです。

 
 

新緑

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新緑の季節となりました。

「山笑う」と言う言葉がぴったりですね。

山南町の狭宮神社の参道に面するお客様宅にご挨拶にあがりました。お留守でしたが、車を止めたら頭の上で鶯が鳴いていました。
 

 
 

 
熱海のMOA美術館の新緑です。先日所用があり出かけてきました。遠くには初島に行き来するフェリー⛴や伊豆半島が見えていました。
 
 

 


 
 
住宅事業部の3年目のA君とMさんが丹波新聞や学校法人修成学園修成建設専門学校のスクールマガジンに掲載されました。新緑の若葉のような勢いで大いに活躍されています。
  
 
 
新入社員向けのY.T.A(ヨネダ・トレーニング・アカデミー)も佳境となり専門分野別に分かれ連日の研修に汗をかいております。若葉のように伸びていってほしいですね。研修の講師を務める入社3年目位の若手や管理職の皆さんご苦労様です。

花惜しむ

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桜の季節となりました。

今年は花見もなく寂しいですね。

黄砂も凄く遠くが霞んで見えます。
 
 

 
 
 
 
 
 
 
昨日より本年度の新入社員がやってきました。

気鋭の若者たちで大いにその将来を期待したいと思います。

今年は社内カレッジ「ヨネダ・トレーニング・アカデミー(Y.T.A)」も開講します。

新人に系統だてた知識を伝えるために社内の若手メンバーを中心に結構な時間をかけてシラバス(講義概要)を作り準備してきました。

長丁場のアカデミーになりますがじっくりと取り組んでいきたいと思います。
 
 
  
  
 

  
 

 
 
 

 
 
 
 
 
  

引いてやる 子の手のぬくき 朧かな

                  中村汀女

 

 
 
 
 
 

 

和漢の境をまたぐ

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今年は節分が1日早く、従って立春も1日早い。

恒例の「立春大吉」お札書き。

早朝に起き、墨をすり筆をとる。
  


  

数十枚書き自宅や会社に貼る。

社員も慣れたもので手伝ってくれる。

「・・・『社長コピーしとってんかなあ?』というてましたで・・・w」

「・・・・・・。。」

慣れれば1時間半もあればかける。

春が来た気分になる。

以前四国から来られた建設会社の社長さんが弊社から帰られる時に玄関扉の上にお札が貼ってあり、

「まじないですか(;゚Д゚)」

と大層驚かれた事がある。。
  
  

硯箱セットに「倭漢朗詠抄」(和漢朗詠集)が習字のお手本として入っていた。
  

あしびきのやまどりのをのしだりおのながながしよをひとりかもねむ 人丸
  

丁度、松岡正剛氏の「日本文化の核心 ジャパンスタイルを読み解く」や「日本という方法 おもかげの国 うつろいの国」を読んでいたために思わずこのお手本を興味深く手にとりました。

著者は日本の文化を理解するうえで「稲作・鉄・漢字」の到来は原始古代の日本への大きな三つの「黒船の到来」と捉えています。

後述しますが、「和漢朗詠集」は「和漢の境をまたぐ」上での日本のエポックメーキングな事象を表します。

「稲作・鉄・漢字」の到来は、ほぼ同時期にやってきました。(稲作は約3000年前の縄文時代後期、鉄は紀元前4世紀~前3世紀、漢字は紀元4世紀と少し遅れるが・・)

話が長くなるので「稲作・鉄」は割愛して「漢字の到来」について記します。

それまで日本人は口伝、オラル・コミュニケーションでした。

一万二千年前からはじまる縄文社会には「縄文語」というべき言葉によるコミュニケーションがありました。文字はなくもっぱら「原日本語」ともいうべき話し言葉によるコミュニケーションでした。

縄文時代後期には人々は協業や分業を始めます。共同墓地、環状列石(ストーンサークル)が登場し、呪術用具がさかんに作られました。縄文晩期になると人々は身体に文身(ぶんしん)を施し体や顔を飾りたてた。文身とはイレズミの事。「文」とはアヤをつけるという意味です。縄文の文様や模様、つまり「文」(あや)が重要な意味を持ちます。

日本人が漢字に初めて遭遇したのは、筑前国(福岡県北西部)の志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)という金印や銅鏡に刻印された呪文のような漢字群です。当時中国はグローバルスタンダードの機軸国故素直に未知のプロトコル(外交儀礼)を取り入れました。(華夷秩序というらしい・・。)

その過程の中で当時一万若しくは二万種類あった漢字を日本人は自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて読み下してしまいました。日本歴史上の最初で最大の文明的的事件でした。ただ輸入したのではなく、劇的な方法で編集しました。

その後日本の中で中国語学習の大きなムーブメントが起きました。(奈良朝から平安初期の遣唐使船の大きな目的は仏教経典を輸入することでした。平安末期の平家は宋学の本を日本に持ち帰りました。室町時代の官貿易、倭寇貿易も同じでした。日本人は思想書を読むのが大好きでした💕※)百済からの使者たちが「千字文」「論語」などを教える者と共にもってきた。天武天皇の時代(681年)に「帝紀」(すめろきのひつき)や「旧辞」(ふること)を編纂されました。稗田阿礼(ひえだのあれい)がこれを日本語として誦習し半ば暗誦しました。

ついで和同4年(711年)、元明天皇は大安万侶(おおのやすまろ)に命じて「古事記」を著作させました。目的は「邦家(みかど)の経緯(たてぬき)、王化(おもぶけ)の鴻基(おおもとい)」を表すためです。大安万侶は稗田阿礼に口述させ漢字4万6027文字で「古事記」を仕上げたました。表記に前代未聞の施しをしました。漢字を音読みと訓読みに自在に変えて、音読みにはのちの万葉仮名にあたる使用法を芽生えさせました。

たとえば「大」は中国語で「ダィ」と発音していたので近似音で「ダイ」としました。しかし日本人は「大」を自分たちの古来の言葉であった「おお」「おおし」「おおき」などの訓読みもするようになり、音読み、訓読みを平然と使い分けるようになっていきました。「生」はショウ(一生)ともセイ(生活)ともキ(生蕎麦)とも読み、かつ「いきる」「うまれる」「なま」(生ビール)とも読みました。驚くべきことでした。

そして日本独自の「仮名」の発明。万葉仮名は真仮名、真名仮名、男仮名と進化し女たちが学びつつ進化させ「女文字」として柔らかな仮名になりました。「安」は「あ」に「波」は「は」に「呂」は「ろ」になりました。「漢字仮名まじり文」の発明です。誠に大胆で、かつ繊細なジャパン・フィルターが作動しました。

当時は日本は中国のオリジナルに倣い、学びながら、日本の自在なリミックス(複数の既存曲を編集して新たな楽曲を生み出す手法)を行うという、日本特有のグローバルスタンダードの受け入れ方は7世紀から9世紀に行われた遣唐使において顕著にあらわれました。日本は唐に使節を派遣することでグローバルスタンダードの数々の制度や文物を持ち帰り、それによって建築技術、仏像技術、造船技術をマスターしました。けれどもいつしか建築技術や仏像における積み木細工や寄木つくりなどを編み出しています。もしそうしないと日本の家屋は全てチャイニーズレストランのようになったりし、太秦広隆寺の優雅でアンニュイな弥勒菩薩像を生み出すことはなかったでしょう。

広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像
  

もちろん中国のグローバルスタンダードをそのまま使うこともあり、太極殿(朝廷の公式裁定をするところ)や禅宗建築はそれに近いです。柱は朱色など極彩色、沓(くつ)を履いたまま登壇します。朝廷は同じ敷地内に必ず紫宸殿(ししんでん)や清涼殿を併設しました。檜皮葺(ひかわぶき)の高床式、沓を脱いで上がる。「漢」と「和」が両立。「デュアル・スタンダード」が意図されました。「いったりきたりできる」「相対性」を活かすことを日本人は重視しました。

他の例で言いますと例えば禅宗は中国から伝わりました。鎌倉時代には宋西や道元は中国へ行って修業もしています。しかし日本の各地に禅寺が建つようになりますとその一角に「枯山水」(かれさんすい)という岩組や白砂の庭が出現します。竜安寺や大徳寺が有名です。中国の庭園には植物も岩も沢山ありますが、日本の禅庭は最小限の石と植栽だけで作られています。

お茶も中国からやって来ました。栄西が「喫茶養生記(きっさようじょうき)」その由来を綴っています。日本は最初それを真似ていましたが、やがて「草庵の茶」という侘び茶の風味や所作に添加していきました。その為茶室を独特の風情で作り上げました。身ひとつが出入りできるにじり口を設け、最小のサイズの床の間をしつらえました。部屋の大きさも広間から四畳半、三帖台目(だいめ)へ、更に二帖台目というふうになっていきました。中国ではこうしたことはおこらず、ここにも引き算がおこっています。侘び茶や草庵の茶に傾いた村田珠光(じゅこう)は短いながらもとても重要な「心の文(ふみ)」という覚え書きの中で、そうした心を「和漢の境をまぎらかす」と述べております。大変画期的なテーゼ(命題)でした。

「和漢の境をまたいだ」例として、紀貫之(きのつらゆき)が第二次日本語認知革命といわれるべきものを起こします。「古今和歌集」を編纂するのですがその序文に「真名序」(真名は本家=中国)と「仮名序」(本家に対して少しへりくだり=日本)という漢和両方の序文をつけました。本来同じ意を書くはずですが、真名序では中国における漢詩のルールとねらいを書き、仮名序ではそれを日本に移した時の和歌独特の変化のスタイルとねらいを書きました。「やまとうたは、人の心を種として、万(よろず)の言(こと)の葉とぞなりにける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るも聞くものにつけて、言ひだせるなり。」中国人の「真名序」とはかなり異なります。

貫之の実験は「土佐日記」において、更に前代未聞のものとなりました。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとするなり」と書かれています。当時、日記は男性貴族が漢文で書くものと決まっていました。それを女も書いてみようと思ったと書いてあるが、男の貫之ですから、ここには仮想のトランスジェンダーがおこしてあります。その日記は漢文でなく仮名になっています。「土佐日記」は「和漢の境」と「男女の境」を二重にまたいだ実験でありました。

やっと和漢朗詠集について話を進めますが、著者は日本文化を読み解くうえでの重要な位置を占める私撰詞花集とみています。(古今集などは勅撰和歌集)藤原公任(ふじはらのきんとう)は娘の婚姻記念の引き出物に作成しました。平安時代の王朝文化で流行した漢詩と和歌のヒットソングを集めたベストアンソロジー・アルバム(特定のテーマについて集められた詩歌集)だとみればよいかと思います。公任は漢詩一詩に和歌三首、あるいは和歌二首に漢詩三詩などいろいろ対比させて漢詩と和歌を両方非対称に収録しました。これは「なぞらえ」という方法です。公任は紅・藍・黄・茶の薄めの唐紙に唐花紋をあしらった雲母(きら)擦りにして、名筆家でなる藤原行成(ふじはらゆきなり)の草仮名(そうがな)で仕上げました。

 


             雲母擦り
  
 

部立ては上帖を春夏秋冬の順にしてさらに細かく、冬ならば「初冬・冬夜・歳暮・炉火・霜・雪・氷付春氷・霧・仏名」(時の移ろいを追う)。下帖はもっと自由に組み「風・雲・松・猿・故京・眺望・祝い・・」といった四十八題を並べました。最後はよくよく考えて「無常」「白」で終わらせました。最後は全てが真っ白になるよう考えられました。これをアクロバチックにも漢詩と和歌を自由に組み合わせました。
  

身を観ずれば岸の額に根を離れたる草
命を論ずれば江の頭に繋がざる船         (厳維)

世の中をなににたとへむ朝ぼらけこぎゆく舟のあとの白波   (満誓)
  

厳維の漢詩は「岸を離れる草」と「岸を離れる舟」の絵画的な比較をもって生死の哀切におよんでいるます。満誓の和歌は劇的な対比はしていません。ただただ「こぎゆく舟のあとの白波」に生死の無常を託しています。漢詩と和歌を一組の屏風や一巻の歌巻の中で対同させる。和漢による同時共鳴という試みです。アワセ・カサネ・キソイ・ソロエという方法が躍如しています。
  

お手本を眺めていますと・・・おっと、「屈原」が出てきました。

楚の王族であった屈原は、博識の上政治的手腕も優れていたために、王に信任され要職につきます。しかし他の官僚の妬みにあい失脚、最後は長沙(湖南省)に左遷されてしまいます。王に見放された屈原は楚の未来を憂いつつ泊羅(べきら)の淵に身を投げ、失意のうちにその一生を終えました。後年その死を悼んだ里人は命日の五月五日に供養として竹筒に米を入れ、泊羅の淵に投げ込みました。ある時屈原の霊が現れ訴えました。「淵にはこう龍がすんでおり投げ込んだ供物を食べてしまう。厄除けに栴檀の葉で包み五色の糸で巻けばこう龍は食べないであろう。」それから里人は教え通り供物を作るようになったそうです。

粽(ちまき)の始まりだそうです。

 


屈原  横山大観作  
  

・・何故か立春の話から漢字の伝来、端午の節句の粽(ちまき)の話になってしまいました。

長々とお付き合い頂き有難うございました。
  

 
 
※司馬遼太郎著「この国のかたち」から

謹賀新年

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明けましておめでとうございます。

お揃いで輝かしい新春をお迎えになられたことをお慶び申し上げます。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
 
 

 

高校時代の恩師から年賀状を受け取りました。
 


 

傘寿のお祝いを5年ほど前に仲間とさせて頂き2年ほど前には一緒に信州を旅しました。

コロナ禍でご高齢の先生も戦っておられるのがよくわかります。

新型コロナが早く収まり穏やかな日々になります事を祈るばかりです。
 

(八方尾根にて)

(先生の奥様から頂いた革細工のレリーフ「晩夏」)

 
先生から折に触れてお便りを頂いており、随分と永らく薫陶を受けております。

ご縁に感謝です。