某経済新聞で連載されたアラン・グリーンスパン氏(元FRB議長=米国の中央銀行総裁のようなもの)の自叙伝を読み、早速注文して詳しく書かれたものを読んでみました。
以前聞いた某テレビ局の経済部担当デイレクターの話を思い出しました。
「中央銀行の総裁は濃霧の中で大型ジャンボジェットを操縦する機長のようなものです。
右のエンジンはGDP(国内総生産)の伸び率・鉱工業生産指数・在庫指数・新車販売台数・住宅着工軒数・輸入物価指数・百貨店売り上げ高等々で・・・
左のエンジンは失業率・有効求人倍率・現金給与総額の伸び率等々・・・です。
客席では総理大臣や議会が時折(選挙が近いので)『客席が寒い・・。』(金利を下げろ)等と騒いでいる構図ですね・・。」
・・・
上巻は彼の生い立ちとともに連邦準備制度議会議長として19年間米国経済の黄金時代を巧みに先導した話です。我々が新聞で読んだような話で、当時の通貨当局の話が生々しく、興味深く読めました。
彼はNY大・コロンビア大を経て、シンクタンクのアナリストを務め、認められ共同でタウンゼント・グリーンスパンという投資アドヴァイザーを設立しました。主に統計的手法を用い、鉄鋼会社等の経営層に助言をしました。
「・・景気の転換点の予想は過去の動きに関するデータベースに基づいて行うものなので、予想システムの正確さはデータベースの質に左右される。そのため、乗用車やトラックの生産水準、航空機の生産計画などを調べた。
・・次の問題は、四半期ごとの出荷量から、鉄鋼消費量と在庫の増減を産業別に算出することだ。この推計のため第二次世界大戦と朝鮮戦争の時期の統計を調べた。・・産業用原材料割り当て制度を運用した際に作成した金属産業の大量の統計が、機密扱いをとかれていたからだ。・・
年末近くにクリープランドに飛び、リパブリック・スチールのトム・パッテン最高経営責任者(CEO)をはじめとする経営委員会にプレゼンテーションを行った。
そのときわたしの予想システムでは在庫が急速に積みあがっており、したがって、鉄鋼産業の生産量が鉄鋼の消費量を大幅に上回っていることが示された。
・・『1558年は苦しい年になるでしょう。』と話した。パッテンは同意しなかった。『受注は好調だ。』と言い、リパブリック・スチールは生産計画を変えなかった。
・・次にクリーブランドに行ったとき、パッテンは委員会でわたしの予想に触れて、『君の意見が正しかった。』と認めてくれた。」①
1957年はわたしが生まれた年ですが、不十分なデータの中で、すでに統計的手法を用いて分析していることに、驚きを感じます。
ジェラルド・フォード大統領(大統領経済諮問委員会の委員長時代)やビル・クリントン大統領が経済政策について非常に賢明であったことも知りました。大統領によって経済政策が賢明かそうでないか・・かなり差があるのは事実です。
「・・・フォードはニクソンと昼と夜ほど違っていた。フォードは精神的に安定していて、これまで知り合った中で、これほど心理的なこだわりの少ない人はあまりないといえるほどだ。
・・フォード大統領の抑制の効いた政策は、経済という観点からは適切なものだった。・・とわいえフォード大統領はこの政策を選ぶにあたって、かなりの勇気を必要とした。この政策が不十分だと非難されることが分かっていたからだ。そして不十分だった場合に、景気の低迷を長引かせかねないことも。
・・そこでわたしは緊急用のヘッドライトを装備しようと考えた。週ごとにGNPを作成して、景気後退の動きをリアルタイムに把握しようと考えたのだ。・・情報はかなり不足の部分があるが、この穴を埋めるため、電話を使った。
・・それ以降経済政策の課題をはるかに的確につかめるようになった。
・・そして在庫は急速に取り崩されており、この勢いが続けばすぐに在庫がなくなる状況にある。したがって、生産がすぐに消費に追いつくはずだ。」②
「1982年の中南米債務危機は、誰の記憶にも生々しかった。メキシコが800億ドルの債務危機に陥ったのをきっかけに、ブラジル、ベネゼエラ、アルゼンチンなどの中南米各国が緊急の債務再編にに追い込まれている。・・事態が深刻であり、議会の考えを待つ余裕はない。
・・クリントンは単刀直入にこう答えたのだという。『いいか、これはわれわれがやらねばならないことだ。』ルービンによれば、『大統領はまったくためらわなかった』という。」③
「クリントン大統領が経済の細部まで関心を持つことは、いつも驚かされた。たとえば、カナダの材木価格の影響がアメリカの住宅価格とインフレに与える影響、製造業のジャスト・イン・タイムへの流れといった点である。
インターネット企業家が巨万の富を築いているのは、経済の進歩の副産物として避けがたいものだと大統領はみていた。『経済の新たなパラダイムに移行するときにはいつも貧富の格差が拡大する。農業から工業に移行したときには、格差がはるかに拡大した。』
・・変化はよいことだとクリントン大統領はいう。この新たな富のうち中間層が獲得する部分を増やす方法をみつけたいと望んでいた。」④
おかげで、米国経済は柔軟度を増し、IT技術の進化・生産性の伸びとともに、ブラックマンデイーや9.11を乗り越えました。彼は米国経済の守護神として「マエストロ」(=巨匠・指揮者を意味するイタリア語)と呼ばれ崇められました。
下巻は彼の経済に対する持論です。中国・ロシア・EU・インド・中南米・日本の国々に対する問題点を列記しております。
また懸念として、所得格差(東西の壁の喪失や内陸部から湾岸部への継続的移動等による労働力のデイスンフレーション圧力。米国の平均雇用期間は6年!)や企業統治(エンロン・ワールドコム)・逼迫するエネルギーの問題(生産力が産油国に移ったため採掘能力の投資が継続的になされていない)・高齢化する世界(不充分な年金負担能力)について記しております。
彼は①財産権の保護の法整備(投資を呼び込む)と②経済活動を市場経済に徹底して委ねる。旨の持論を展開しています。
「・・だがプーチンは、資本主義を目指す有望な政策をとった後に、全体主義へと逆戻りし始めた。・・ロシアの生産的資源を大部分手中に収めた新興財閥、オリガルヒがその富を利用して政権を奪うのではないかと考えた。・・既存の法律や新たな法律を恣意的に執行し、多数のエネルギー関連資産をクレムリンの支配下に収めたのである。
・・ロシアには消費財に対する潜在的な膨大な潜在需要があり、巨額の対内投資が行われる可能性のあったことから、投資家が財産権を信頼できるようになっていさえすれば、消費財生産は間違いなく増加していただろう。」⑤
「・・おそらく本書で取り上げるどの主要国よりも、資本主義の生産性の高さと、社会主義の停滞を如実に示しているのが、インドであろう。
・・インドが照準を合わせたのが、世界の経済活動の中で最も成長率の高い分野である、21世紀型のハイテク・グローバル・サービスである。
・・だが、一人当たりのGDPで見ると、1990年代初めこそ中国と同程度であったが、現在は5分の2にすぎない。
・・イギリスの統治制度は全面的に撤廃されたが、残された思想がエリート層を捉えた。フェビアン流の社会主義である。
・・あらゆる面に及ぶ管理は、「許認可による支配(ライセンス・ラージ)」と呼ばれるようになり、事実上、インドの経済活動のすみずみに浸透していった。」⑥
彼が懸念した「根拠なき熱狂」として、再三にわたり警告した米国株式市場と米国の住宅価格の高騰の問題が今現実のもののなろうとしています。
また、中央銀行総裁としてまた資本主義の総本山のコンダクターとして一挙手一頭足に絶大な影響力のある彼は「何よりも市場に害を与えないように注意をする」発言を常に要求されました。
・・・そのせいか?一緒に住んでいたジャーナリストの女性に結婚を5回申し込んでいるが、彼女には3回としか認識されていないくだりも面白かったです。
とても興味深く、楽しんで読めました。
「・・金融政策の引き締めをいつはじめるのか、何処まで引き締めるのか、そして重要な点として、いつ打ち止めにするのかは、魅力的な知的な挑戦であり、時には神経をすり減らす課題である。
過去に軟着陸を目指した例がないだけに、なおさら大変な挑戦であった。・・『60階のビルから飛び降りて、両足で無事着地出来るかどうか試してみよう。』というように感じていた。
FMOCの委員にとって判断がもっとも難しかったのは、1995年2月1日の0.5ポイントの利上げ、このサイクルで最後のものになった利上げだ。『今日利上げを決めれば、後悔する結果になるのではないかと私は恐れている。』・・FMOCの委員はみな、リスクを認識していた。
ネジを1回転、締めすぎたのではないだろうか。逆に締め方がたりないのはないだろうか。我々は濃霧の中、手探り状態で進んでいた。
・・金融政策で利上げという抗生物質の投与を止める時期が早すぎると、インフレという感染症がぶり返すリスクがあるのだ。・・」⑦
①~⑦ 「波乱の時代」-わが半生とFRB- アラン・グリーンスパン