先の休日に読みさしになっていた、「日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で-」水村美苗著を読み終えました。
著者は著述業で、12歳より米国で育ち、仏蘭西に留学経験もあり、米国でも教壇に立った女性です。
米国に住みながら、少女時代より夏目漱石などの日本文学をひたすら耽読したそうです。
作家として日本から米国の大学のプログラムに招かれた時、他国の作家と交流し、自国の古来からの一貫した言語で著述することが如何に幸運かを感じます。(他国に占領された国々は二重言語や三重言語になる。)
他国の作家のほとんどは、様々な政治状況の中で、様々な言葉(自国の古語を含む)で文章を紡いでいました。
著者のパリの講演の場で、異国の作家から日本文学をさして「主要な文学」と言われたことに著者は感じ入ります。日本語が近代文学を持っていたことを、世界の読書人に認識されているということに改めて気づきます。
・・・「もし日本が元寇を始めとする他国の侵略や占領にあっていたなら、今の日本語の成立は無かった」と著者は考えます。
漢文の到来・漢文訓読(順序を逆にして自分たちの言葉のように読む)・膠着語(て・に・を・は・が・の・・)+助詞(である・たる・なる・・)を漢文の脇に添える・漢字の意味を捨て表音文字として使う=万葉仮名・・・・・カタカナ・ひらかなになっていきました。
カタカナとひらがなは「普遍語」と「現地語」という別の道を辿ります。
カタカナは長い間漢文訓読に従属した文字体系であり続けました。カタカナは漢文の脇に返り点と共に小さく挿入されているだけであったが、次第に漢字と同じ大きさになっていきました。最後には返り点を必要としない「漢字カタカナ交じり文」という現代の日本語のおおもととなる書き言葉になっていきます。
ひらがなはいち早く漢文の翻訳文である漢文訓読から離れ、「やまと言葉」で詠む和歌を中心に成立していきました。漢文の読み書きを禁じられていた女性が使う言葉となっていきました。中国への遣唐使が間遠くなり、次第にひらがなが男性の読書人に使われるようになっていきます。最初の勅撰和歌集「古今和歌集」はひらがなによって編纂されました。
二重言語者である紀貫之はわざわざ女性になりすまして、「土佐日記」を書きます。
・・男もなする日記というものを女もしてみむとてするなり・・・
「源氏物語」「枕草子」は桁はずれた才能を持ちながら女ということで漢文を書くのを禁じられていた紫式部と清少納言という女性によって書かれました。
「今昔物語」(平安後期)「正法眼蔵随聞記」「歎異抄」「方丈記」(鎌倉前期)は「漢字カタカナ交じり文」で書かれました。
その後、「徒然草」(鎌倉後期)・西鶴・新井白石の自伝・十返舎一九・曲亭馬琴・上田秋成(江戸時代)以降は「漢字ひらがな交じり文」になっていきます。
江戸時代の「出版文化の発達」が、日本の言葉・日本の文学の成熟を助けました。
福沢諭吉の「福翁自伝」(初版明治5年)は初版がなんと20万部、最終的には300万部以上売れたそうです。
そんな中で、美的な、繊細な、美しい響きの、情緒豊かな、日本語が急速に成熟していきました。
・・・・
現代では、「グーグル・ブック・サーチ・ライブラリー・プロジェクト」・・・インターネットを通して、全ての世界の書物にアクセスできると言うプロジェクトの存在があります。
「インターネット万能の時代、全てが英語に飲み込まれようとする時代、もし味わい深い日本語が『亡びる』運命にあるとすれば、その過程を正視するしかない・・・。」と著者は考えます。
分かりつらいですが、拾い読みのあらすじです。
・・・
何はともあれ、美しい繊細な日本語が、味わうこともなく次第に廃れていく?はやむを得ないことですが・・・・。
私は廃れていくのではなく、柔軟に進化してきた日本語が、時代に合わせて更に進化していっているように思います。
・・・少し前に読んだ「銀の匙(さじ)」中勘助著。
中学校時代の教科書に載っていた何時までも心に残る詩。
・・・自分の琴線に触れるのは、やはりその時代時代の人間の心象風景によるのかなぁ・・と思います。
甃(いし)のうへ
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳(ひとみ)をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂々(ひさしびさし)に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ
三好達治